『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)

 2016年1月31日  年間第4主日 C年 (緑) 緑

2016年1月31日
「この人はヨセフの子ではないか。」(ルカ4・22より)

青年像のイエス
  彫像(部分)
  ローマ国立博物館 3世紀
 
  きょうも、表紙には、青年像のイエスとして伝わる初期の彫像を掲げてみた。先週のモザイクは、青年像とはいえ、十字架のしるしのついた光輪、そして祝福のしぐさをしているところに、救い主としての尊厳がみなぎっているイエス像であった。それに対して、この彫像は、一般のローマの青年を表現しているものとしか見えない。3世紀、4世紀というキリスト教美術の初期においてはキリスト像は、一般の表象をもって表現されていた。羊飼いや教師の姿が多く、それらの中にはいかにも青年像のものもあった。この彫像は、まったく普通の青年の姿にしか見えないところが、逆に興味を引く。
 一般社会の中によく知られていた形象を使ってキリスト像を描くということは、造形的想像力の自然な成長過程を示すものだろう。それは、人がキリストをどのように知り、どのように思い描いていったかを物語っているのではないだろうか。
 きょうの福音朗読箇所のルカ4章21−30節では、イエスが登場したときに、故郷の人々がイエスの口から出る恵み深い言葉、つまり神の力をもった言葉に驚いて言う。「この人はヨセフの子ではないか」。つまりヨセフの子にすぎないのになんということを言うのだろう。信じがたい……というニュアンスのものである。故郷の人には、普通の家の息子に過ぎない青年の口から、神のことばの実現が告げられる(先週の福音朗読箇所参照)のは信じがたいことであった。「ヨセフの子」としか見ず、そのことばの真実に心が開かれない人々によって、しまいには、あわや崖から突き落とされそうになる。
 このようなエピソードに触れるとき、遠い昔のユダヤ人たちの間だけのことではなく、現代の我々自身も陥りかねない、《イエスのことを何らかの意味ですでに知っていると思い込んでいる状態》を考えなくてはならないのではないか。我々にとっては、「ヨセフの子」という当時のユダヤ社会における認識の仕方に比べられるのは、一般的な知識、一般教養として与えられている《キリスト教という宗教の開祖である人物イエス・キリスト》という理解なのではないか。上述のように、西洋キリスト教美術の中で一般化していった長髪で髭を生やした男性というイメージのキリスト像で想像しているイエス・キリストを超えて、彼のことばに神の力、神の恵みのみなぎりを感じなければ、真の意味でイエスに出会うことにならないだろう。
 《イエスを知ってはいても、本当には出会えていないという状態》を超えるには、知らされている知識や美術的に伝えられている造形イメージの一切を脇を置いて、福音書の中に教会の信仰のうちに保たれているイエス自身のことばの響きに虚心に耳を傾け、心を共鳴させるしかない。逆に、本当にイエスに出会えているなら、その理解をもっと豊かに語り、その視覚的イメージもさまざまに思い描いていくことができるかもしれない。キリスト教美術史初期に、青年像として描かれたキリスト像のうちには、永遠のいのちの尽きることのない若さが象徴されていると味わっていくこともできる。イエス・キリストのことをそのように思い描いた当時の人々の新鮮なセンスを分かち合いながら、我々の時代の中での新たなキリスト像の造形にも期待していくことにしたい。

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