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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2019年4月14日  受難の主日 (枝の主日) C年 (赤)
主の名によって来られる方、王に、祝福があるように(ルカ19・38より)

エルサレム入城 
オットー三世朗読福音書挿絵 
ミュンヘン バイエルン国立図書館 十世紀末

 イエスのエルサレム入城の場面を描く中世の朗読福音書挿絵。ミサの感謝の賛歌の後半の句「ほむべきかな。主の名によりて来たる者、天のいと高きところにホザンナ」を唱和したくなるような、賛美の気持ちがいっぱいにあふれる作品である。イエスのエルサレム入城の場面は、福音書の箇所を旧約聖書と福音書、そして典礼(受難の主日の聖書朗読およびミサそのもの)との対応関係とさらに美術の役割・意義を総合的に考える絶好の箇所である。そのことを確かめながらキリストの神秘を味わっていくことにしたい。
 まず受難の主日(枝の主日)の典礼のはじめに置かれている枝の祝福・行列に関して朗読される福音箇所は、A年では、マタイ21章1-11節、B年ではマルコ11章1-10節(またはヨハネ12・12-16)、C年ではルカ19章28-40節。細かな違いは別として、イエスが子ろばに乗ってくるところ、そして、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」という句が出てくることは、どれも共通である。
 ろばについては、ゼカリヤの預言(ゼカリヤ9・9)が背景にある。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る」。救い主の到来を予告する預言である。そして、このことがイエスにおいて実現したということを証言しているのがエルサレム入城ことを記す福音書の意図である。また、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」は、詩編118 ・26「祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する」を根底にしつつ、イエスが主であることを証明し賛美する句として、ここでは引かれている。これらを通じて、このエルサレム入城の場面は、エルサレムで本当に受難の歩みを開始するところで、すでにイエスが救い主、主であることが示される内容となっている。受難の主日の冒頭の福音でありながら、主の死と復活が示そうとしていることも、すでに表しているといえる。
 絵は、そのすべての意味をこめて描かれている。へりくだりの象徴でもあったろばが主であるイエスの動く玉座としての趣をもつ。ろばの前に描かれる木には、ルカだけが19章1-10節で伝えるザアカイのエピソードが盛り込まれている。下の人々は自分の服をかざしている。枝をかざしているようではないが、叙述の要素が組み合わされた表現工夫の一つといえるだろう。向かって左側は弟子たちであると考えられる。ろばの上のイエスの姿は、すでに荘厳である。背景の金色は神の栄光のしるしであり、栄光が満ちあふれる中の中央に位置するイエスは、皇帝や王が一つの町に入城するときの荘厳な風情を漂わせている。まさしく感謝の賛歌の歌うようにここで「主の栄光は天地に満つ」のである。
 エルサレム入城のイエスは、その受難と復活のプロセスの始まりにして、結末をも示す両義的な意味をもって福音書では置かれており、また、絵はそのことを一つの場面の中に収めている。そして、典礼においては、ミサがいつもその奉献文の本文の前に、主を賛美する感謝の賛歌を歌い、主の自己奉献の記念へと入っていく。主イエスのへりくだりと御父への従順の姿を奉献文の祈りを通じて、思い起こしたあと、そのイエスのいのちに一人ひとりが参与していく。このようなミサの構造の中に、つねにこの入城のイエスの姿がいつもあるともいえる。そのことを1年の典礼暦の中で特に集中的に記念する受難の主日のミサは、自らの奉献に向かうイエスのへりくだりと御父への従順の姿を何よりも学ぶことになる。第2朗読のフィリピ書2章6-11節(ならびに詠唱)が告げる通りである。「キリストは、神の身分でありながら、……自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ 2・6 -8 より)。
 この箇所には、もちろん十字架磔刑図のキリストがふさわしいが、同時に、エルサレム入城の場面の絵も、このフィリピ書に暗示的、予示的に対応している。この日には祝福された枝を一人ひとりがキリストへの賛美のしるしとして掲げる。家に持ち帰って一年間置かれるとしたら、それは、また救い主キリストを自分の家に迎えているということでもある。枝とともに朗読される内容を心にとどめておくことにしよう。
 主の入城とともに、聖なる一週間が始まる。復活の夜明けが近づいている。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

ろばは柔和です。子どもが蹴っても抵抗しませんし、餌はなんでも食べますし、背は低く、目立たない動物です。長い間待たされても、いらいらしません。
 まったく反対なのが馬です。馬は姿美しく背は高く、プライドがあって、生気に満ちています。当然、馬は王様、貴族、兵隊や金持ちの乗り物となりました。馬は癇癪持ちが多いので、乗るときに危険な目にあうことがままあります。
 そういうことを考えますと、イエスがエルサレム入城のときに、子ろばに乗って来られた理由がうなずけます(マルコ11・1~6)。イエスはろばに乗ることによって、わたしたちに深い意味を教えてくださいました。「あなたの王が高ぶることなくろばに乗ってくる」(セガリア9・9参照)

ミシェル・クリスチャン 著『聖書のシンボル50』「49 ろば」本文より

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