2019年5月26日 復活節第6主日 C年 (白) |
天使は、聖なる都が天から下って来るのを見せた(第二朗読主題句 黙示録21・10より) 天のエルサレム 『ベアトゥスの黙示録注釈』挿絵 パリ国立図書館 11世紀 8世紀に生きた、スペイン北部の修道者リエバナのベアトゥス(799年頃没)は、優れた黙示録の注釈書を残したことで知られている。それがいかに好評であったかは、10世紀から13世紀にかけて豊かな挿絵で彩られた多くの写本が作られたことからもわかる。この時代のスペインはイスラム支配圏となっていたが、そのさなかでも、キリスト教を守った人々により「モサラベ美術」と呼ばれる独特な芸術文化が形成される。この黙示録注釈の挿絵は、その代表作といわれるもので、黙示録の幻視の世界を、鮮やか配色とリズミカルな構図によって具象化している。 この絵の場面は、きょうの第二朗読、黙示録21章10-14節、22-23節に関連する。 全体は、天使が見せてくれた聖なる都エルサレムを表す。ほぼ正方形の全体図の中の東西南北に三つずつの門があり、それぞれに12使徒が配されている。今だったら、あるいはルネサンス期以降だったら、遠近法を駆使して立体感ある光景としてイメージしていくであろうが、ここは、全く平面図の中に、城壁(四隅の石壁の表現)と門も、上から構図的にして配置している形のものである。12使徒もそれぞれ外側が上側であるように描かれているので、個々人の姿を見るためには全体を見回す必要がある。しかし、このような想像力を通して、「四方」や「12」のもつ象徴的意味、宇宙万物との関連、その調和や完全性の意味合いが強調されてくる。 天使が示している小羊は十字架がともに示されている。もちろん神の小羊と呼ばれるキリストである。 黙示録の叙述では、小羊が語られるところで「全能者である神、主」(21・22)と、父である神がいつも小羊とともに語られる。このように、神がともにいるということが、この文脈では「神殿」をキーワードにして語られている。「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである」(21・22)。かつては神がともにいることを示す限定的な場であった神殿はもはや意味がなくなった。キリストのうちに神自身がいつもともにいる。「神殿を見ない」、「主と小羊とが都の神殿」と語られる意味である。 この御子キリスト、御父である神がともにいるということが、きょうの福音朗読箇所ヨハネ14・23-29節のテーマでもある。御子イエスを愛する人について「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14・23)と告げられるからである。やがて、このことを助けるために「弁護者」、すなわち聖霊が置かれる。ここで「弁護者」という言葉が使われるのも、ともにいて助けてくれる方だからである。イエスが地上にいたときとは別のあり方に移ったとき(すなわち死んで、復活して天に昇った後)は、聖霊を通して、御子イエスも、御父も我々とともにいる方となる。このあり方は、今の我々にとってのあり方と変わらない。キリストがともにいることも、御父がともにいることも、今は聖霊を通してである。聖霊が我々に注がれており、我々を満たし、包み、浸透していることで実現している。それが典礼祭儀でいつも父と子と聖霊の名が告げられる理由である。 きょうの福音朗読箇所には、ミサの平和のあいさつの前の祈りのもとになった、イエスのことばが語られる。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14・27)。式文では「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」である。きょうの朗読配分を加味してこのことばを味わうと、「平和」が、キリストがともにいること、御父がともにいることの実現であることがわかる。かつての「神殿」のような限定的な場所・建物はないが、聖堂に集い、キリストの平和のうちに神の民が新たにされ、互いに平和を交わし合い、世に遣わされて平和を広げていくとき、そこにまさしく聖霊の神殿(1コリント6・19参照)が建てられていくときなのであろう。 |