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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2019年7月28日  年間第17主日 C年 (緑)
キリストと共に葬られ、……キリストと共に復活させられた(コロサイ2・12 より)

十字架のキリスト 
ミサ典礼書挿絵 
スペイン トルトーサ大聖堂 12世紀

 きょうの福音朗読箇所は、ルカ11章1-13節、全体として、祈りについての教えである。ルカによる「主の祈り」(2-4節)が示され、さらに「求めなさい。そうすれば、与えられる」(9節)を中心とする祈りへの勧めである。「求めよ、さらば、与えられん」と文語体で日本でも格言として多くの人が耳にしているものである。ただ、表紙絵はこちらではなく、第2朗読コロサイ書2章12-14節にちなんでいる。とくにキリスト者は「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」(12節)の箇所。この関連での十字架のキリスト像である。中世の写本画に描かれる十字架磔刑図は、しばしばご覧いただいているとおりである。
 定型要素となっているイエスの両脇にいるマリアと使徒ヨハネ(ヨハネ19・26-27参照)。太陽(ここでは左)と月は人の子の来臨の時の光景にちなむ。すなわち、たとえば、「太陽は暗くなり、月は光を放たず」(マタイ24・29)となったことで、逆に、この出来事の偉大さをあかしする存在となった。この絵の場合は表情を細かく読み取れないが、擬人化された太陽と月が十字架の出来事にかなりの驚きとおののきを示している。
 イエスの体は、全体として白く、この闇夜のような背景の上で、くっきりと浮かび上がっている。手や脇腹、足から血が生々しく流れているにもかかわらず、身体そのものは軽やかで、祝福の波を送っているようにさえ見える。死と同時に、死を超えたいのちの輝きが既にここには感じられる。ただの死の光景ではなく、死と復活、すなわち過越の神秘のイメージ画といえる。
 マリアと使徒ヨハネを見てみよう。イエスのほうを見上げてはおらず、ややうつむきかげんで、十字架上のイエスから受けたことばをしっかりと受けとめ、沈思しているようである。マリア(ヨハネ福音書にはマリアという名前が出てこないが)は、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19・26)と言われて、使徒ヨハネ(ヨハネ福音書は「愛する弟子」と記す)をマリアに示して託し、使徒ヨハネに対しては、「見なさい。あなたの母です」(27節)と言って、母をその弟子に託す。このようなイエスとの関係性から、どちらも教会を代表する存在としてイメージされていることがわかる。
 使徒ヨハネは、使徒たち、弟子たち、広い意味でキリスト者すべての筆頭にあるものとして。マリアは、そのような弟子たちが生まれる母体としての教会そのものの象徴として十字架の前に立っているようである。使徒ヨハネは、左手に本、右手が祝福のしぐさとなっており、これは、救い主キリストの姿と同様の姿勢にもなっている。すでにイエスの使命を引き継ぎ始めているのだろう。
 マリアは、胸の前で手を交差させている。神のことば、イエスの十字架の出来事などすべてを思い巡らしているようである(ルカ2・19参照)。そして、今や、マリアは母なる教会のあり方を象徴する存在となっており、すべての人の救いのために祈っている方である。そのようなマリアの心がこの絵では、よく考えられているのではないだろうか。
 さて、この挿絵は、聖書の挿絵ではなく、ミサ典礼書の挿絵である。典礼書では、奉献文(ローマ典文、現在の第1奉献文)が始まるところに、本文の初めの句“Te igitur”の最初のTの文字装飾としてTを十字架で描くことから始まった。やがて、独立したページにこのような一場面を描くスタイルが定着し、現代にまで踏襲されている。十字架での受難・死を強調した時代も長く続いたが、現代では、このような中世の磔刑図でも、イエスの死だけではない、復活の栄光を暗示させるような描法のものがだんだん顧みられるようになっている。奉献文の中心にあるのが、キリストの死と復活の神秘、過越の神秘であることの確認が徹底されたことがそのような見直しを後押ししている。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

 懐かしい未来へ
 イエスは次のように命じられた、
 わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(マルコ8・34)。
 もちろんこの言葉はいろいろな形で解釈されるだろうが、私たちの希望のメッセージとして受けとめたらどうだろうか。「自分を捨てる」とは、古い自分の考えや価値観を捨てることをまずは心がけてみればどうか。マネー資本主義で何が何でも利益を出さねばならないという発想自体が古い自分の根にあるかもしれない。「過疎だからだめだ」「ハンデがあるからだめだ」という発想が古い自分をしばっていることもある。そのような価値観をまず捨てることから始めたらどうだろうか。「自分の十字架を背負って」というのは、今自分が直面している苦しみをただのマイナスと捉えるのではなく、キリストの復活に向かう一つの希望の入り口と見なすことではないか。なぜなら、不要な木材が大黒柱に、捨てられた石が親石になるのだから。そこから新しい出発が可能になるのではないか。
英 隆一朗 著『希望の光―危機を通して、救いの道へ』「11 懐かしい未来へ」本文より

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