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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2019年9月1日  年間第22主日 C年 (緑)
あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都(第二朗読主題句 ヘブライ12・22より)

新しいエルサレム    
バンベルクの黙示録 
ドイツ バンベルク国立美術館 11世紀

 表紙絵は、ドイツ、バンベルク国立美術館所蔵のため、通称「バンベルクの黙示録」と呼ばれる聖書写本の挿絵である。直接には黙示録21章をもとにしている。天使が「わたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた」(黙示録21・10)というところである。
 この都は、その中に神殿がないといわれる。「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである」(同22節)。都の中の小羊の姿はキリストである。キリストの体がキリスト者にとっては神殿、つまり神がともにおられるところという教えが暗示されている。
 そのような、神とキリストの存在と栄光で満たされる聖なる都エルサレムのイメージは、黙示録だけのものでないことが、きょうの第2朗読箇所であるヘブライ書12章18-19節、22-24節aからも明らかである。そこの文のほうがもっと詳しく語られている。「あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス」というのである。
 「シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム」という句はそれぞれ同じ意味で、どちらかというと場所を思わされるが、次の二つの句は「集まり、集会」という語がキーワードである。つまりこれらの句で、それが場所というよりも共同体であること、つまり教会、しかも天上の教会であるということをいっている。さらに次の三つの句、神(御父)、天の聖徒たちの霊、そしてイエス・キリストを語り、その共同体の根源を示している。エルサレムは、旧約聖書以来、救いの完成の時をイメージさせるものであった。それが、新約聖書では、広げられ、深められ、新しい契約に生きる民の姿そのものを表現するものとなっている。黙示録21章に基づくこの表紙絵も、そのような新約の神の民の姿を示していると受け取ることができる。神の小羊が中心にある都、それが天から降りて来る地上には、天使に導かれる「わたし」がいる。これは、地上の信仰者が天上の教会へと招かれている光景である。
 このような神がともにいる都、共同体の図を心にしっかりと納めたとき、きょうの福音朗読箇所であるルカ福音書14章1、7-14節と第一朗読箇所であるシラ書3章17-18、20、28-29節を結ぶ共通のテーマが深く関連づけられてくる。ルカ福音書では、へりくだることの教えが「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ14・11)という文言に要約されて告げられるとともに、へりくだる人が集められた婚宴に神の国がたとえられている。シラ書の箇所では、ルカ14・11の文言と同じような響きで「偉くなればなるほど、自らへりくだれ、そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる」(シラ3・18)と語られる。この「主は喜んで受け入れてくださる」のイメージが、福音朗読箇所では「婚宴」となる。神の国とは何かということが、いわば「神が受け入れてくださるところ」だという解説がシラ書によってなされているともいえる。福音と旧約の往復関係の中をとおして、神の意志と救いの計画の一貫性が浮かび上がってくる。
 ここにヘブライ書の内容と表紙の絵が含むイメージを絡ませてみよう。絵が描く都の中央にいる神の小羊は、実に威厳に満ちているが、この小羊には、自らへりくだり、贖いのための犠牲として自分をささげたイエス・キリストの姿が盛り込まれている。へりくだったがゆえに神に高く上げられた方(フィリピ2・6-11参照)であることが、この都を輝かせ、天と地を結んでいる。
 ヘブライ書は、生ける神の都が聖徒の交わりとその集いにほかならないことをよく教えてくれている。この考え方は、われわれのミサを支え、導くものである。ミサ全体が神の前に、キリストともに自分を低くし、互いにも敬い合い、支え合うことを教わる営みでもある。このような教えの主こそ、十字架の死から復活へと歩まれたキリストにほかならない。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

 神は決して見捨てない
テレーズは「自分が父に愛されていることを知ること。そして、その父は危険を前にした自分を決して放ったらかしにはしない。そのことを知っている幼子の愛と委託の精神をもって進め」と言います。遠藤さんは、『侍』という小説で、人は役に立たなくなれば見捨てられていくという現実を書いていますが、それは日本だけのことではなく、地球上どこでも同じです。
 このリジュ―の聖テレーズも世間で、そういう目に何度も遭ってきていますが、そういうとき、「神さまは決して私を見捨てない」と言います。
星野正道 著『いのちに仕える「私のイエス」』「7 『侍』とリジュ―の聖テレーズとの比較」本文より


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