2019年9月22日 年間第25主日 C年 (緑) |
願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい(一テモテ2・1より) 祈る母子 壁画 チェメトリウム・マーユスのカタコンベ 4世紀前半 初期キリスト教美術の主要な舞台の一つであるローマのカタコンベ(地下墓所)に、オランス(祈る人)という画題がたびたび描かれていることはこの欄でも紹介してきた。そこに託された古代教会の人々の祈りの心は、さまざまなものであっただろう。中でも墓所という場から死後の魂が神によって確かに導かれ、永遠の安息に至ることを願うものが主流であったことは確かであろう。ただ、その祈りの趣旨や範囲はそれだけにはとどまらない。 チェメトリウム・マーユスの壁画である表紙絵は、両手を上げて祈る姿勢の女性(ローマ人の衣装をまとっている)の胸に男の子が描かれている。左側には、キリストを示すモノグラム(略号文字 ギリシア語のXとPの組み合わせ)があることから、ここは聖母子像が意識されているものと見ることができる。ローマでも1月1日が古くから神の母聖マリアの祭日として祝われていたので、聖母崇敬は古くからあった。我々が今ミサで唱えている使徒信条もローマ教会の伝統にあるもので、「主は聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ」という文言に、福音書が告げるマリアと御子の関係がしっかりと刻まれている。御子を胸に抱きながら、祈りを神にささげる聖母の姿は、まさしく教会の心そのものといえるだろう。 この絵を、きょうは第2朗読箇所一テモテ書2章1-8節とともに味わいたいと思う。一テモテ書のこの箇所は、ミサの共同祈願の精神を告げる最初の箇所といわれる。「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」(1-2節)。この「すべての人々のため」の祈りという意味合いを汲んで、現行の『ローマ・ミサ典礼書』では共同祈願のラテン語の原語は「オラチオ・ウルヴェルサリス」、文字通り「すべての人々のための祈り」である。日本語訳の「共同祈願」もこの意味で考えるようになりたい。 ここの祈りについての教えは、ことばの典礼における共同祈願だけではなく、ミサの奉献文における、いわゆる「取り次ぎの祈り」の部分にも関係がある。実際にはここは、「共同体のための祈り」というべきもので、教会共同体だけでなく、世界のあらゆる人々のことも祈ってよいところである。実際ビザンティン典礼など、東方諸典礼において、古代から中世初期にかけて形成されていったアナフォラ(奉献文)では、この共同体のための祈りが大変長く細かく、その中では、皇帝や王のことも祈る部分がある。一テモテ書の「王たちやすべての高官のためにも」という精神がそのように生き続けていく。 奉献文の中の共同体のための祈りの意味について、朗読される一テモテ書2章3節にヒントがある。「これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです」。この「喜ばれる」がヒントである。パウロはローマ書12・1節で「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と語る。ここでは、キリスト者の生き方そのものが、いけにえとして自らを神にささげることというように、生きること自体が神への礼拝・奉献であるというところまで普遍化されている。この考え方を土台として、教会の典礼としての祈りがある。ミサを通して、また「教会の祈り」(聖務日課)の朝の祈りや晩の祈りを通して、すべての人々のための祈りは絶えず行われ、それを通して、キリスト者は自らを神への感謝のいけにえとして奉献しているのである。 キリスト者のなすべき礼拝、生活そのものの神への奉献という、パウロのメッセージの中心は、もちろん福音朗読箇所であるルカ16章1-13節の教えとも通じている。神に忠実であること、神に仕えることの教えである。たとえを用いたイエスの教えは、我々に日常生活を生きる個人としての生活訓とも受け取れるが、イエスにおいても、使徒書においても、「あなたがた」(キリスト者共同体)への教えである。個人の生き方はもちろんだが、ミサをささげつつ生きている教会共同体としての生き方、世界におけるあり方にまで目を向けさせるメッセージである。古代教会時代の地下墓所に描かれた、御子キリストを胸に抱きながら祈るマリアの姿を、現代の我々の祈りの支えとしたい。 |