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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2019年10月27日  年間第30主日 C年 (緑)
へりくだる者は高められる (ルカ18・14より)

徴税人とファリサイ派の人 
モザイク  
ラヴェンナ サンタポリナーレ・ヌオヴォ教会 6世紀

 イタリア、ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオヴォ教会の聖堂は左右の壁にモザイク画が飾られている。その左側の最上段にイエスの生涯の13のエピソード、右側の最上段にイエスの受難と復活をめぐる13の場面が描かれている。鮮やかな造形作品であり、聖書の叙述との関連もわかりやすいため、これまでもこの『聖書と典礼』の表紙でたびたび紹介している。きょうの福音朗読箇所ルカ18章9-14節のファリサイ人と徴税人の話(ルカだけが伝えるたとえ話)のモザイクも、この話の主題を的確に表現している。
 徴税人がユダヤ社会では民から憎まれ、疎まれていたことは、周知のとおりである。人間社会では差別や偏見の対象であった彼が、実は、最もへりくだって祈っていた人であることが印象づけられる話である。ファリサイ派の人は「立って、心の中でこのように祈った」(ルカ18・11)と記すだけだが、この絵の(向かって)右側の人物(ファリサイ人)は両手を上げている。一テモテ書2章8節に「清い手を上げてどこででも祈る」とあるように、また古代キリスト教美術に多く見られる「祈る人」(オランス)の図で見られることからもわかるように、立って手を上げる動作は祈りの代表的な姿勢だった。「祈る人」(オランス)のような図の場合、天におられる神への懇願の心が十分にじみ出てくるのに対して、このファリサイ派の男の姿はどうだろう。まず目が天に向かっているようではない。人の世界の中で、人々に対して、祈りの姿勢を誇示しているようにさえ感じられる。
 それに対して徴税人のしぐさは福音書の記述に忠実である。男は、目を伏せて、自分を恥じ、胸を打って悔い改めに専心している。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18・13)と言いながら。
 イエスがこの二人の人の態度を対比して語る中に、はっきりとした教えが示されている。まとめにあたる「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18・14)がいわばたとえの解明にあたるが、もう一つ、直接の教えとして関連づけられているのが第1朗読のシラ書(35・15b -17、22-22a )の朗読である。「主は裁く方であり、人を偏り見られることはない」(15節b)、「虐げられている者の祈りを聞き入れられる」(16節)、「謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、それが主に届くまで、彼は慰めを得ない」(21節)などである。
 もう一度、画像に注目してみよう。二人の男の対比がテーマである話の具象化であることはよくわかるが、逆に最も目にとまるのは、中央の部分の薄暗い部分ではないだろうか。たとえでは「二人の人が祈るために神殿に上った」(ルカ18・10)とあるだけである。しかし、この絵は、真ん中の入り口から向こう側を至聖所(もっとも聖なる場所)として描いているのではないか。その前の帳(とばり)はまとめられ、開かれている状態。(向かって左側の)徴税人は、明らかにここの前で頭を下げて祈っている。神の御前であることがわかっているかのようである。ファリサイ派の人の目は、人に向かっていて、神の空間は尻目にされている。ここに彼の傲慢が強調されているようでもある。二人の態度をじっと見ている神のまなざしが、この暗い部分から注がれていると考えると、この場面そのものがもっと味わい深くなる。
余談だが、ルカの本文にも「胸を打ちながら」(ルカ18・13)と記されており、それが、この徴税人の動作としても描かれている。胸を打つという姿勢は西洋では悔い改めの動作として長く慣習となっているようで、ミサの開祭における回心の祈りの動作として、今も残っている。日本ではこのような習慣がないので、『ミサ典礼書』のミサの式次第でも『回心』の注釈に「しばらく沈黙のうちに反省する。続いて一同は手を合わせ、頭を下げて告白する」とあるように、頭を下げる姿勢をもって表現することでよいとされている。いずれにしても、徴税人のことば「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18・13)は、明らかに、ミサにおける我々のことば、主を迎えて呼びかける「主よ、あわれみたまえ」(あわれみの賛歌)や「主よ、われらをあわれみたまえ」(栄光の賛歌、平和の賛歌)にもつながってくる。こう考えることで、イエスのメッセージは、我々にもっと近づいてくる。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

ルカ17章20-21節
 神の国はいつ来るのか、それはファリサイ派の人々にとって特に知りたいことでした。彼らは、律法を守ってさえいれば、そのことがやがて来る神の国に入る確実な手形になると考えているのですから、神の国の来る日、自分たちこそがその国に入る優先権を持っていると確信していたのです。そして彼らの考えによれば、娼婦や徴税人などの罪びとは国の外に投げ出され、泣き叫ぶはずでした。
 ところがイエスは、彼らの考えを完全に粉砕します。
オリエンス宗教研究所 編『聖書入門―四福音書を読む』「第8講 神の国」本文より

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