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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2015年12月6日  待降節第2主日 C年 (紫)
「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(福音朗読主題句 ルカ3・6)


洗礼者ヨハネ
  手彩色紙版画
  アルベルト・カルペンティール(ドミニコ会 日本)

   

 待降節主日の聖書朗読において、第2主日、第3主日では洗礼者ヨハネがクローズアップされる。第1主日では、終末における来臨のための準備(目覚め)がテーマとなり、第2主日、第3主日では、洗礼者ヨハネの登場と彼による真の救い主の到来の予告が焦点となる。終末への来臨の待望の中で、イエスの到来そのものが思い出されていくという流れである。いわば救いの歴史を遡っていくのである。そして、いよいよ待降節第4主日と主の降誕を通して、イエスの誕生、その生涯の始まりの出来事が主題となる。そしてこの待降節〜降誕節という一続きの季節が主の洗礼の祝日で締めくくられることを考えると、イエスの洗礼をめぐる出来事が神の子の顕現を主題とするこの典礼季節において重要な位置にあることがわかる。
 さて、きょうの表紙絵は、きょうの朗読箇所ルカ3章1-6節にちなみ、洗礼者ヨハネが現れて「ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(3節)にあたるところである。ヨハネの風体に関する描写はないが、マルコ(1・6)が記すような「らくだの毛衣を着」という描写は反映されている。
 ルカの叙述とマルコ(1・1-8)、マタイ(3・1-12)叙述を比べてみると、この洗礼者ヨハネの登場に対して預言者イザヤの書の言葉を挙げる範囲の違いが目につく。共通部分は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(イザヤ40・3参照)だが、ルカはさらにそれに続く部分まで引用する。イザヤ40章4-5節の本文では「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」。ルカ3章5-6節では「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」となる。文学的表現の違いはともかく、ルカが末尾の「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」までを挙げて、これによってイエスの到来が普遍的な意味での救い主の到来であることを明確に表現しようとしていることがわかる。
 ルカ福音書の文脈に即せば、マリアの賛歌で「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(1・47)、ザカリアの預言で「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し……」(1・68以下)とすでに予告され、誕生の夜に天使が「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである」(2・11)と告げられている。この流れすべてが洗礼者ヨハネの登場に関するイザヤの預言の引用にも流れ込んでいるといえる。救い主は今や、洗礼者ヨハネの先駆けを受けて、彼からの洗礼を受けることを通して、人々の前に立ち現れ、公に神の国の福音宣教を始める。洗礼者ヨハネの宣教とその洗礼活動は、救い主イエスの活動の始まりの準備であるとともに、すでにその実現の始まりであるとさえ、ルカは踏み込んで述べているようなのである(それは、来週の福音朗読箇所の末尾にあたるルカ3章18節で、ヨハネが「民衆に福音を告げ知らせた」と記しており、ヨハネの活動がすでに福音宣教であると述べているところにも示される)。
 なぜ、このことを確かめたかというと、カルペンティール師の描写に見る左側の部分、胸に手を合わせたり、ヨハネに向けて手を差し伸べつつ見上げたりする人々の姿が、いかにも待ち望まれた救いの到来を迎えようとする姿勢に見えるからである。「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という文言とよく響き合うのである。洗礼者ヨハネとイエスの現れは、神の計画に基づく一つの救いのみわざであるという見方、ルカ福音書がヨハネの誕生から物語を始めたその見方を深く味わわせてくれるような図といえよう。
 そのようにルカ福音書を味わいながら、左上の太陽を見ると、その輝きと円形を通して、神の救いの完全な実現が象徴されているように感じられてくる。

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