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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2015年12月27日  聖家族 C年 (白)
両親はイエスが学者たちの真ん中におられるのを見つけた  (福音主題句 ルカ2・46より)


学者たちの中の少年イエス
  エグベルト朗読福音書
  ドイツ トリール市立図書館 980年頃

   

 きょうの福音朗読箇所ルカ2章41−52節をそのまま踏まえた挿絵である。どのように描かれているか、本文と照らし合わせながら見ているだけでも、本文に深く入れるようになる。
 エルサレムから帰宅しようとした両親が、イエスのいないのに気がつき、捜しながらエルサレムに引き返す。「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」(ルカ2・46)。まさにその瞬間である。
 人物の動きがとても生き生きと描かれている。「両親」と記されるだけだが、マリアとヨセフの動きが注目に値する。特に、マリアの前掛かりで右手を差し出す様子に、「お父さんもわたしも心配して捜していたのです」(2・48)という心配ぶりが強調されている。左手をほほにあてる動作にも、心配だった気持ちと、イエスのいる場面に対する驚き、そして、《ようやく見つかった》という喜びなど、幾重もの感情が込められているようである。その後ろに立つヨセフは、やや冷静な態度に見えるが、それでもイエスが見つかったことに対する安堵の表情が窺われる。
 イエスの周りにいる4人の学者たちは、ここでは、若い人物として描かれている。4人ともまなざしをイエスに向けている。イエスの左側(マリアの前)にいる二人の学者のイエスのほうに向けられた手が強調されている。「イエスの賢い受け答えに驚いていた」(2・47)に対応する。
 さて、イエスはというと、12歳だというのにかかわらず、すでに一人前の衣装で、学者たちの中にいる。その手は差し出される巻物をしっかりと掴み、集中してその内容に目を注いでいる。神のことばへの集中ということが、この絵のテーマであると思われる。すべての人の視線が少年イエスに集まっているにもかかわらず、その導線を遮るかのように、イエス自身は神のことばに集中しているのである。
 この専心ぶりに注目するとき、ようやくイエスの言葉が大きく響いてくる。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(2・49)。神のことばに集中するイエスの姿は、まぎれもなく彼が今、父の家にいること、父とともにいることを示しているのである。
 この姿からもう一度、マリアとヨセフのいる位置に目を向けると、そこにはイエスをめぐる空間との深い断絶、深淵が感じられるようでもある。「どうしてわたしを捜したのですか」−−この言葉の意味を理解できずにいたが、母は、それもすべて「心に納めていた」(51節)。このように鑑賞していくと、絵の中の、母が左手で頬を抑える動作がだんだんと「すべて心に納めていた」姿に見えてくるのが不思議である。

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