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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年1月24日  年間第3主日 C年 (緑)
この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した (ルカ4・21より)


祝福するイエス
  モザイク(部分)
  ヴェネツィア サン・マルコ大聖堂 13世紀

   

 2015年12月8日から始まっている「いつくしみの特別聖年公布の大勅書」の最初に、教皇フランシスコは「イエス・キリストは、御父のいつくしみのみ顔です」と語っている。キリスト教美術やイコンが描く、キリスト像も、いつも御父である神のいつくしみの、目にみえるみ顔である。このような意味で、今年は、イエスの顔をクローズアップした作品の多様性に目を向けてみたいとも思っている。
 表紙作品は、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂にあるモザイクの中の、イエスの顔と半身。祝福のしぐさをして、真正面を向いているイエスである。イエス・キリストの姿については、長髪で髭を生やした威厳ある姿というのが固定観念のように広く普及しているとはいえ、歴史的に見ると多様なキリスト像の一つのタイプにすぎない。少年像ともいえるような青年像で描かれる例も十分にあることを知る必要もある。
 さて、年間主日では朗読配分C年の特徴であるルカ福音書の朗読が始まる。ナザレの会堂で、安息日の礼拝集会に来て、聖書朗読の奉仕をしたイエスが、朗読されたイザヤ書の箇所について、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と告げるところである。ここから、イエス独自の宣教、すなわち神の国の福音を告げ知らせる宣教活動が始まっていくのである。
 イザヤ書の箇所(イザヤ61・1-2、58・6)を引用しつつ、ルカ福音書3章18節は、イエス自身が「主によって油を注がれた者(メシア=主の油を注がれた者、救い主)として遣わされていること、それは「貧しい人に福音を告げ知らせるため」「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由に」するため、「主の恵みの年を告げるため」であることが示される。それは、これから始まるイエスの活動を予告する意味をもつ引用でもある。この内容と、マタイ福音書5章3-12節の山上の説教における「心の貧しい人は、幸いである……」のメッセージを重ね合わせてみるとき、救い主イエスがもたらす神の国の姿がくっきりと浮かび上がってくる。
 人々が福音を知り、神の子とされることが、捕らわれからの解放、圧迫からの自由、そしていのちの力の回復として告げられる。これらが古代ユダヤ教社会に生きていた人々の様相の隠喩として解説される場合もあるが、この文脈だけに尽きることなく、もっと普遍的に、人類が置かれている不自由な状況、人間が人間として生きられていない状況の表現として読んでいけることは当然である。待ち望まれた救い主の活動が始まったという初々しい感動を、この青年像のキリストの祝福のしぐさのうちに感じ取ってみよう。そして、問いかけてみよう。我々はこの21世紀の初めという時代に、どのような解放、自由、いのちの回復を求めているのだろうか。いやそれ以前に、神は我々に神の子としてのどのようなあり方を望んでおられるのか。
 ちなみに、「主の恵みの年」とは、かつて旧約時代におけるヨベルの年(レビ25・10−55)を指す言葉で、50年ごとに負債のすべてが免除され、奴隷が解放されることが定められた年のことで、教会における「聖年」の考え方や慣習の前身にあたる。もちろん、教会の聖年がイエス・キリストによる、神のいつくしみ、神のゆるし、神の愛の現れを基にしているものであることは、今年のメーセージ「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」が鮮やかに示しているとおりである。

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