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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年9月18日  年間第25主日 C年 (緑)
この方はすべて人の贖いとして御自身を献げられました。(一テモテ2・6より)


十字架上の神の小羊
  祭壇の天蓋彫刻
  ヴェネツィア サン・マルコ大聖堂 6世紀
   

 きょうの表紙には、第2朗読、一テモテ書2章1−8節の中の「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました」(6節)にちなんで、十字架上のキリスト、しかも、このキリストを神の小羊として直接、描く祭壇の天蓋浮き彫りを掲げてみた。構成としては斬新な珍しい作品といえる。
 しかし、キリストが十字架に磔にされた姿を写実的に表現する作例と比べて、実は、我々のミサを考えるためにも非常に有益な作品でもある。そのほかの要素は、比較的に福音書の受難記事から連想されるものを描き込んでいる。両側の十字架に磔にされている犯罪人、イエスの十字架の周り(上下)にいる兵士らしき人、特に、イエスの衣服を分けているような光景もよく描き込まれている。
 それでいてイエス自身が神の小羊として描かれたのは、これが祭壇天蓋を飾る作品であるという場所への配慮が作用していると思われる。ミサは、イエスを神の小羊として表象させる賛歌や式文に富んでいる。もちろん奉献文の中心的なところで、イエスの聖体制定句(聖別句)で、すべての人の贖いとして御自身を献げられたことがあかしされ、その意味合いが、パンとぶどう酒に込められ、これらがキリストのからだと血であると告げられるところに、すでに「神の小羊」であるキリスト、すなわちご自分を贖いの献げ物とするキリストの姿が凝縮される。そして、交わりの儀は、この聖体において主が我々一人ひとりの中に来られること、同時に、我々一人ひとりがこのキリストの贖いの奉献に深く参入していくことが、「平和の賛歌」(神の小羊、世の罪をのぞきたもう主よ……)と、続く拝領前の信仰告白への招きの言葉「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」などを通して、表現される。
 このように、イエスの十字架上での磔刑死が、もちろん犯罪人の刑死ではなく、贖いの献げもの、いけにえとしての死であることがこの神の小羊の表象によって示されている。小羊として表現されているキリストこそ、神と人の唯一の仲介者(1テモテ2・5参照)なのである。このこと自体は、キリスト教が携える変わることのない核心的な真理である。そして、この第2朗読にちなむ図像作品は、きょうの福音朗読と第1朗読を結ぶメッセージを読み取るためのヒントになるのではないだろうか。
 きょうの福音朗読(ルカ16・1−13、または16・10−13)の主題句は末尾13節から「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」が選ばれ、第1朗読のアモス(8・4- 7)の朗読も、「弱い者を金で買い取る人に対する主のことば」が読まれ、神に従うことと富への執着とが相いれないことが一つの要点として教えられる。これだけで見れば、富への執着を捨てなさい、という戒めが主題と思われるかもしれない。しかし、それとともに、福音朗読におけるイエスの教えは、逆説的な述べ方で「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(ルカ16・9)とか「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」(同11節)といったことを言う。「不正にまみれた富」とは、この世の富、現世的な富を意味する表現のようで、ここでは、現世的に富への「忠実さ」、あるいは「抜け目のないやり方」での富の取り扱い方を称賛さえしているようなのである。この内容を加味すると、富というものに対して、執着し、振り回されていくような生き方に対して、この富の効用を冷静に見きわめ、友をつくるため、神の望まれる人間的関係を生み出し、増進するために、役立てていくという態度や行動が神からは求められている、そちらのほうに主要なメッセージがあるようだと思われてくる。それが究極には、自分自身を神にささげ、そして神の愛を体現するようにして人に尽くす生き方に集約されていく、そのような展望が開かれているのではないだろうか。「腰をすえて考える」ことへの勧め、またタラントンの譬えなどとの関連も、こうするとよく見えてくるようである。

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