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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年10月2日  年間第27主日 C年 (緑)
「しなければならないことをしただけです」(ルカ17・10より)


夕食を用意する僕
  手彩色紙版画
  アルベルト・カルペンティール(ドミニコ会 日本)
   

 カルペンティール師の絵は、きょうの福音朗読箇所(ルカ17・5−10)の第二の段落の譬え話にちなんでいる。ここは、畑を耕すか羊を飼うかした僕(しもべ)が家から帰ってきたとき、主人は、夕食の用意をしてくれ、給仕してくれと早速命じるものである。決して、まず食事をしなさいというような温情的な態度はとらないし、また、食事の用意や給仕の仕事をしたからといって感謝するわけでもないことに注意を向かわせる。キリストに従う弟子、すなわち神の僕としても、務めを果たしたからといって恩恵を期待するのではなく、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(ルカ17・10)という謙遜さ、自分の分を弁えた態度こそが重要だという教えになっている。
 絵は、この話のそれぞれの要素を追っている。背景には畑が描かれていて、牛(らしき)家畜を使って耕作作業をしている光景がある。この仕事から帰ってきた僕が右側に描かれ、自らが用意したであろう食べ物の容器を主人に差し出して給仕している。ひざまずき、自分を低くし、まさに仕える者の姿勢である。自らを「取るに足りない僕」と自覚し、「しなければならないこと」をしているのだという意識が、主人をひたすら見つめる表情に示されている。席についているのは主人、その表情は甘くはなく、威厳に満ちている。しっかりと僕に僕としての仕事を命じる姿勢がよく表現されている。
 イエスのこの譬えは、弟子たちにその生き方を教えるという文脈で語られており、ここで教えられているような主人と僕のやりとりは、キリストとその弟子、神と神に従う人の関係の比喩として語られているのはもちろんである。したがって、それを具象化した、この絵の二人の人物と両者の位置関係、姿勢などに、キリストと弟子、神と信者との関係を見ていくことができる。特に、この主人の姿は、何の説明もなければ、我々はただちにキリストと思うだろう。主を示すしるしである頭の後ろの光輪がないにしろ、建物の窓がちょうど光輪のような役割をしているように見えてくるのである。ただ、ここにキリストと弟子たちの関係の比喩を見るだけでは足りない。主人と僕の譬えは、さらに、父である神と、そのみ旨に仕えた御子キリストの関係さえも見ることができるし、また見なくてはならない。
 譬えの核となっている僕の務めとして、食事の用意、食事の席での給仕が言及されていることも示唆的であろう。仕える者、給仕する者を指すギリシア語原語ディアコノスは、教会での奉仕者を広く示すとともに、助祭の名称ともなっていく。また、ここでは、最後の晩餐での奉仕を自ら行ったイエスの姿も思い起こすことが必要である。
 そのイエスは、今も、ミサの中で、主の食卓を司り、神への感謝の祭儀を導いている。それぞれの共同体における司祭の奉仕、信徒の奉仕は、このキリストの祭司職へのそれぞれの参加の姿である。この絵に描かれている主人と僕の関係は、日々営まれる神の民の祭儀の本質を映し出している。

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