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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年10月9日  年間第28主日 C年 (緑)
耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる(二テモテ2・12より)


荘厳のキリスト
  浮彫 ドイツ ペータースベルク
  ザンクト・ペーター教会 12世紀
   

 表紙の図像は、12世紀の教会堂の扉の上に描かれていると思われる「荘厳のキリスト」の浮彫である。中世初期の聖書写本画にも多く描かれるタイプのキリスト像で、『聖書と典礼』の表紙でもすでにおなじみであろう。キリストは玉座にあり、左手には神のことばを意味する書物が、右手は、神の右に座す方としての権威をもって祝福を与えるしぐさである。頭の後ろの光輪が神なる主としての威光を示し、キリストの眼差しも威厳に満ちている。
 このキリスト像は、特に、きょうの第2朗読を意識して掲げた。二テモテ書2章8−13節である。ここには、おそらく初期の教会の中で歌われていたであろう、キリスト賛歌が引用されている。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる」(二テモテ2・11−12)。この文言は、一方では、ローマ書6章でパウロが洗礼について教えている箇所を思い起こさせる。そこでは、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6・4)。他方、二テモテ書の文言は、洗礼についてというよりも、現実に受けている迫害、信仰ゆえの苦難について述べていて、それらを「耐え忍ぶなら」と言っているようでもある。
 いずれにしても、ここで待望されていることは、一つ、キリストと共に生きるようになるということである。「共に支配するようになる」と言われているときの「支配する」も、キリストの教えられたとおりの意味で理解しなくてはならない。何か他者を、力をもって圧迫し、押さえつけるような意味での支配ではなく、キリストがいつくしみ深い御父のみ旨や力を示されたように、キリスト者自身も同じように御父を示し、いつくしみ深く生きることを教えているものにほかならない。御父のようにいつくしみ深く……「いつくしみの特別聖年」が再確認させてくれたこのキリスト教の基本が、この二テモテ書では、まさにキリストと共に生きる、共に支配することとして語られている。
 このように考えると、第2朗読にちなんで掲げられた「荘厳のキリスト」像も、きょうの福音朗読(ルカ17・11−19)と第1朗読(列王記下5・14−17)で浮かび上がるテーマ、すなわち重い病を患っている人が神の力によっていやされ、そのことに恩恵を感じた人が神を賛美し、信仰を表すようになったというテーマともつながってくる。いのちの主である神の生きた働きと、その神に信頼をもって賛美や感謝をささげようとする人の信仰が強調されているのである。どのような苦難にあっても、神が救ってくださる、神が共に生きておられる、すべてを支配し、導いておられるという確信とその表明が含まれているのである。
 ミサは、つねに、洗礼を受けてキリストと結ばれ、神の民となった我々のキリストへの信頼を表現する。キリストと共に生きる喜び、苦難にあってもキリストと共に生かされることの確信、死を超えても共に生きるようになることへの希望で満ちている。荘厳のキリスト像は、遠いキリストではなく、ミサの中にいつも共にいる主の姿を示している。

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