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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年12月18日  待降節第4主日 A年 (紫)
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい (マタイ1・21より)


ヨセフへのお告げ
  手彩色紙版画
  アルベルト・カルペンティール(ドミニコ会 日本)
   

 普通、「お告げ」というと、天使ガブリエルのマリアへのお告げ(ルカ1・26−38)がすぐ連想されるが、きょうの福音朗読箇所マタイ1章18−24節の出来事も、立派なヨセフへのイエス誕生のお告げである。マリアへのお告げとヨセフへのお告げを比べてみると、マリアは起きているときに天使のお告げを聞くのに対して、ヨセフは夢の中で聞く。夢の中で神からの不思議な示しがあるというのは、聖書ではしばしば見られることでも、ここにおいて何か程度の弱いお告げであるというわけではない。
 この夢の中でのお告げというところから、ヨセフをしばしば寝床に横たわっているものとして描いている絵が多いが、カルペンティール師は、他では見ない形、すなわちヨセフが椅子に座ってうとうとと寝入っているように描いている。これは、縦型の画面に描くという制約のせいだけではないだろう。その椅子も簡素ではあるが、かなり幅広くゆったりとしている。ここに込められている意味を、あえて深く解釈させてもらえるなら、この座は、神の恵みの座といえるのではないだろうか。
 マタイ福音書の叙述は、ヨセフの心理を想像させる要素に富んでいる。なによりも、婚約者マリアが聖霊によってみごもったという、超自然的な出来事を目の当たりにする。いわば神の子の受胎の証人となるという召命をここで受けている。そのマリアのことを表ざたにしないように、周囲の世間のことを精一杯慮(おもんぱか)って、 ひそかに縁を切ろうとまで決心しているヨセフ(マタイ1・19参照)は、おそらく、神を畏れる人であると同時に、ユダヤ人社会の一員としても「正しい人」であったに違いない。
 その彼に告げられるのは、そうではあっても、マリアを妻として迎え入れること、そして生まれてくる男子を「イエス」(この名はすでに救い主であることを意味している)と名付けることである。これまでのユダヤ人社会にある信仰の次元を、一歩も二歩も踏み越えていくようなことが命じられるのが、ここのヨセフである。これは、いわば新しい神の民の父となることへの召命にほかならない。アブラハムへの召命(創世記12章1−9節。そこでは名はアブラム)に匹敵する出来事なのである。
 そして、アブラハムがそこで、神の命令に対して、なんら言葉で答えることもせず、「主の言葉に従って旅立った」(創世記12・4)ように、ヨセフもここでは、マリアと違ってなんら発言することもなく、「眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」(マタイ1・24)ている。ここではヨセフは、アブラハムと同様に、主の言葉に聞き従った人として「正しい人」(義人)である。
 さて、そのお告げに対して、マタイ福音書は、それが「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤ書7章14節(きょうの第一朗読に含まれる箇所)の預言の成就であるとし、「インマヌエル」というヘブライ語の名が「神は我々と共におられる」という意味だと解説する(マタイ1・23参照)。この「インマヌエル」というテーマは、この福音書の最後に記されるイエスの言葉「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)と符合する。
 マタイ福音書のイエスに対するあかしの根幹をなす「インマヌエル」の思想。それは、このカルペンティール師が描くところの、ヨセフと、そのそばに寄り添う天使の光景のうちにも十分にあふれている。ゆったり椅子で安らぐヨセフは、神の恵みに包まれた人類の心の平安を先取りしている。

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