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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年1月22日  年間第3主日 A年 (緑)
悔い改めよ。天の国は近づいた (マタイ4・17より)


教えを説く牧者イエス  ローマ アウレリウス家地下墓所 3世紀


 カタコンベの壁画と同様な手法で描かれているイエスと羊の群れ、これが山上の説教という画題で伝わっていることも興味深い。羊飼いと羊の群れをもって、イエスと信者たちが一緒にいる光景が描かれるのが、このカタコンベや石棺彫刻など、キリスト教美術初期の通例である。しかし、この絵の場合、イエスは尊厳ある教師としての姿、巻物に象徴される神の言葉を告げる方としての姿をしているが、その下にいる信者たちはすでに羊の群れとして描かれている。イエスのいる空間と、羊の群れのいる空間とが上下に区切られているところに、上は写実的、下は隠喩的といったイメージの切り換えの意味があるのだろうか。
 いずれにしても、ここにいる羊たちの姿はそれぞれが大変繊細である。その向きもさまざまで、一つの方向に導かれているようには見えない。行き先に迷っている者たち、導きを待っている者たちの姿のようである。このような図であることによって、それは、きょうの福音朗読箇所の「山上の説教」との対応だけでなく、第1朗読や第2朗読とも関連づけてみられる。第1朗読のゼファニヤの預言では「苦しみに耐えること」が民に求められている(ゼファニヤ2・3)。そのような「苦しめられ、卑しめられた民」(同3・12)を、主である神は、自らの民として残し、守っていこうとする。彼らは主に「養われて憩」うことができる。その計画は、今、イエスを通じて大々的に実現されていくのであり、それが神の国の福音である。
 山上の説教で語られることは、神の国(マタイでは「天の国」)とはなにか、神とはどのような人を祝福し、招かれているのかを鮮やかに語る。我々は、どこかで、ここで幸いと語られている存在であると自分を思ったことであろう。「心の貧しい人々」「柔和な人々」という言葉はわかりにくいが、「悲しむ人々」「義に飢え渇く人々」ならばすぐ共感できよう。上述のゼファニアの預言にある「苦しめられ、卑しめられた民」(3・12)といった語句もヒントになる。世の中にあって、力ももたず富ももたず、または自由も権利も制限され、抑圧され、虐げられていること、あるいは大切な人やもの、または自分の拠り所をも喪失し、息を潜め、声も出せずにいることなどが想像できる。そのような状況にある人々にこそ、神の国が約束されているとイエスは告げる。そして、憐れみ深くあること(いつくしみ深くあること)、心の清いこと、平和を実現すること、迫害を受けても、神の義を目指して行動することは、悪口や迫害を受けても、イエスのために生きることなどが、より積極的な神の国に生きる生き方として語られている。正確な意味がとらえにくいところもあるが、しかし、そのメッセージの新しさと力は十分すぎるほどに迫ってくる。「幸いである」という宣言の中に、神の臨在を感じずにはいられない。この言葉とともにイエス自身が我々の中にいてくださる。そのような臨在感こそが慰めであり、限りない励まし、ミッションの告知ともいえる。このような言葉を発する方へと我々は引き付けられてやまない。
 絵の下にいる羊たちも、そうした飼い主の言葉を聞き分け、やがてそれに従っていくであろう。
 きょうの第2朗読箇所である一コリント書も、このあたりのことにまさしく触れている。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(一コリント1・27-28 )。このような意味で、きょうは三つの朗読のアンサンブルがとてもよく出ている。その根底に、十字架のイエスの姿とその復活をいつも思うべきであることは、ミサそのものが教えてくれる。

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