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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年6月11日  三位一体の主日 A年 (白)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された  (ヨハネ3・16より)


生命の木をかたどった十字架のキリスト
  ドイツ 
  ケンプテン参事会聖堂 14世紀前半


 三位一体の主日A年の福音朗読は、短く、ヨハネ福音書3章16−18節のみと大変短い。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)をヒントに、生命の木をかたどる十字架に磔になったキリストをイメージして掲げている。なによりも、その特有の形が印象深い。十字架の横木の両端が上のほうに上がるという形式。そこに磔になっているイエスの両手は、さながら、祝福のしぐさのようである。目は閉じていて明らかにキリストは死んだ姿ではあるが、その両手を挙げ、身体がまっすぐになっている姿勢は、充分に祝福する主の姿に見える。しかも、脇腹から流れ出る血は、イエスがまぎれもなく、地上を生きた生身の人間であること、神の御子であり、救い主であるということか。決して、上から降ってきた話なのではなく、人としての生涯の極みにおいて明らかになったことがこの像の趣から伝わってくる。
 イエスの地上の生涯の終焉となった十字架の木は、アダムの創造の話に出てくる楽園の命の木と対照されることが多い。アダムの罪とキリストによる救いの対比が「木」という共通項によって結びつけられ、創造と救いの歴史の全体が想起される。この解釈伝統は、聖金曜日の十字架の礼拝で歌われる「十字架賛歌(2)  クルクス・フィデーリス)」に鮮やかに表現されている。
 少し引用してみよう。「けだかい十字架の木、すべてにまさるとうとい木、その実、その花、その実り。いずこの森にも見られない。うるわしい幹、さいわいな釘、とうといからだを担った木」
 2番では「あざむかれて不幸の木の実を食べ、人祖は死を身に受けた。その姿をあわれに思い、造り主なるわれらの神は、罪の木のわざわいをゆるす木を、その日すでに示された」、そして8番「高くそびえる十字架の木。釘づけられた主のからだを、枝を垂れてやさしく抱き、幹の堅さをやわらげて偉大な王の手足を包め」。何かこの詞がこの像の背景に思われる。
 十字の横木のあがり具合がなんとも優美であり、その木の格好自体で御子を遣わして御父である神の思いが感じられてくる。
 さて、三位一体の祭日は、中世初期から教理的な内容自体を崇敬するようになった信仰心の実りとして生まれたが、この日のミサの聖書朗読は、神の名の啓示、神の救いの業の要約的叙述に示される神観をあらためて告げている。A年の福音朗読は、ヨハネ福音書3章16−18節から読まれ、大変短い叙述であるが、御父である神の愛が端的に語られている。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。愛ゆえの御子の派遣という観点で、その動機としての愛を語る。この神の固有性としての愛を語るために、第一朗読では、出エジプト記34章から主の御名の啓示(すなわち神のあり方に関する啓示)が読まれる。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち〔た者〕」(出エジプト34・6)である。
 この憐れみと慈しみにおいて、新約の御父である神の特質が表現されている。第2朗読の二コリント13章11-13 節からも、「愛と平和の神」「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」というミサでもなじみ深いことばが読まれる。三位一体の神とは、愛といつくしみの神にほかならない。この神がいつもミサの中に現存し、我々はその神に賛美をいつもささげ、その愛の中で、神の民としての分かち合いと交わりを続けている。この神の特質が、キリストの十字架において凝縮されていることを、表紙に掲げた像をとおして、生き生きと味わえよう。

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