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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年12月25日  主の降誕 (日中のミサ) B年 (白)
言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た(ヨハネ1・14より)

主の降誕    
フレスコ画 フラ・アンジェリコと弟子による作 
サン・マルコ美術館 15世紀 


 降誕図の歴史の中でヨーロッパの14−15世紀には、新しい型のものが広まっていく。それは、降誕の場面、マリアが寝床にいての出産を思われるいわゆる降誕の出来事を描くというものから、幼子への礼拝を主題とする絵の流行である。それには、14世紀に著された『キリストの生涯の黙想』という信心書や、スウェーデンのビルギッタ(生没年1303〜1373)の神秘体験をつづった書の影響があったとされる。幼子イエスは、飼い葉桶のある小屋とか洞窟からではなく、家屋と家屋の間の地面に横たわり、その前で、ヨセフやマリアがひざまずき、手を合わせて礼拝するというものである。礼拝者の中には、しばしば、絵の制作と同時代の人の反映も見られる。もちろんこれは創作上のことであるが、ともかくも幼子イエスに対する意識の変化が示されている。
 地上にしかも裸で寝ているイエスは、すでに光輪をもって描かれ、周りを金色にする光に包まれている。それは、神の光にほかならず、表情は静かな威厳を湛えている。貧しさの中に生まれた幼子が裸で光に包まれているという光景は独特であるが、地上に確かに神の御子がお生まれになったことがこのような描写を生み出したようである。この絵の場合、背景が飼い葉桶のある小屋のようであり、さらに左右の端から見えているとおり岩山も描かれている。伝統的にイエスの誕生の場所として描かれ、また考えられてきた前例を二つ背景に従えているということになる。
 この絵の前景では、幼子を礼拝する心がマリアとヨセフに加え、他の人々の礼拝姿勢を通して表現されている。胸の前で手を合わせるという姿勢の徹底は、天使たちにも及んでいる。ひざまずいてのこのような姿勢は、中世末期のこの時代以降、礼拝の基本姿勢としても広まっていくことが知られている。ミサにもその反映があり、その伝統に触れた方も多いことだろう。
 このような幼子への礼拝図とともに、主の降誕の聖書朗読を味わうならば、なによりも福音朗読箇所が重要手ある。ヨハネ1章1−18節(短い朗読の場合1・1−5、9−14)の冒頭「初めに言があった。言神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1・1−2)、そして、とりわけ「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1・14)という箇所。第2朗読箇所ヘブライ書1章1−6節の中では、「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」 (3節)であるといった箇所が心にとまる。もちろん、そこでは、イエスの全生涯、贖いの死と復活、昇天までの経緯を前提として、そのすべてを地上のか弱い裸の幼子の姿のうちに黙想しているのである。
 この姿のうちに、主の降誕・日中のミサの集会祈願(これは伝統的なもの)の唱える神のみわざを想起することも意味深い。その前半は「永遠の父よ、あなたは、人間を優れたものとして造り、救いのわざを通して、さらに優れたものとしてくださいました」である。ここの「優れたもの」というのは、訳し変えれば「尊厳あるもの」ということであり、ここには、創造のみわざを通してすでに尊厳ある存在として造られている人間は、御子キリストを遣わして実現した贖いのみわざをとおして、さらに尊厳あるものとなったという、救いの歴史の決定的転換が告げられている。神の御子キリストの誕生はただ、それ自体で意味があるだけでなく、つねに人類全体、我々のための出来事である。それゆえ、集会祈願は、後半で「神のひとり子が人となられたことによって、わたしたちに神のいのちが与えられますように」と祈る。
 ヨハネの福音書も、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(ヨハネ1・4)と述べ、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(同1・9)とあり、いつも人間、すべての人に向かっている。この光を見て、「地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ」(第1朗読末尾イザヤ52・10。および答唱詩編参照)のである。マリア、ヨセフらの礼拝は、主の公現で読まれる東方の占星術の学者たちの礼拝の先駆けでもある。

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