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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年2月14日  灰の水曜日  (紫)
隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい (マタイ6・6より)


祈る人
壁画
ローマ ジョルダーニのカタコンベ  4世紀


 2018年の四旬節が始まる「灰の水曜日」の福音朗読箇所はマタイ6章1−6、16−18節。全文が心からの施し、祈り、断食を求めるイエスの教えである。ここで3回登場する「偽善者」という語に「俳優」という意味があることがしばしば解説される。その意味合いについては、同じ言葉が出てくるマタイ福音書15章7−9節を見るとよくわかる。「偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている』」という、口先と心の中が違うこと戒める預言者のことばの引用である。この趣旨と同じことを、きょうの第1朗読のヨエル書も冒頭で告げている。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」(ヨエル2・12−13)。「心から」がきょうの聖書朗読の一貫したメッセージであり、四旬節の趣旨を端的に告げている。
 イエスはきょうの教えの中で、「偽善者たち」とは「人からほめられようと」(マタイ6・2)したり、「人に見てもらおうと」(マタイ6・5、16)したりする人であること、イエスの弟子はそうではなく、施しも祈りも断食も人に気づかれず、「隠れたことを見ておられるあなたの父」(同6・6)の御前で行うように告げる。この教えは、我々にとって、高い要求であろうか、キリスト者として当然のものなのであろうか。口で言うことと心で思うことの一致こそ、人間にとって、もっとも難しいことなのではないだろか。心から祈り、誠実に行動できるためには、やはり祈りが必要なのではないだろうか。そのような祈る心や姿勢を考えるときに、キリスト教美術初期に盛んに描かれた「祈る人」(オランス)の図に注目したいと考えた。
 「良い羊飼い」などと並んでキリスト教美術初期の代表的テーマの一つである「祈る人」のモチーフは、古代ローマの美術の中で「敬虔」を擬人化する図にも見られたものであるという。それがキリスト教美術に取り入れられたときに死者のための祈りと結びついたため、石棺彫刻や地下墓所であったカタコンベの壁画に数多く描かれるようになった。死者の肖像をこのオランスの型に託し、名前を書き添えることもあったという。
 この画題のキリスト教的意味については、さまざまな解釈がある。地下墓所や石棺に描かれていたことから復活を待ち望む死者の魂を描いたとするもの、すでに楽園に招かれた死者が神に賛美と感謝をささげている図とするもの、すでに安息のもとにいる死者が新しい死者のために取り次ぎの祈りをしている姿とするものなどである。
 両手を上げて祈る人の顔が天に向けられている場合、神に向かう祈りの方向性が強く感じられるが、表紙絵のように、横を向いている場合は、地上の人々のことへの取り次ぎを願っている性格が加わっているように感じられる。描く動機としては、そのように、死者自身の祈りや、死者のための祈りを主題としようという意図が強かったかもしれないが、描かれた姿には、もっと普遍的に、祈る教会の姿を見ることができる。この絵の場合は、さらには、教会と一つになっている主キリスト、神の祝福を人々にもたらす仲介者としての姿を眺めることもできる。神の民である教会は、キリストと結ばれ、その祭司職にあずかって、すべての人の救いを祈り続けるものだからである。
 きょうのイエスの教えも、我々が偽善者のようではないかと戒められているように受け取ってしまうかもしれない。父である神は「隠れたことを見ておられる方」であるということを警告のように感じてしまうかもしれない。しかし本当は、人知れず苦しんでいることや、思っていることを、たえず神は見ていてくださっているという福音が重要である。真摯な、「心を引き裂く」回心はたちまち神に受け入れられるだろう。イエス・キリストによって「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(第2朗読箇所全体を参照。二コリント5・20ー6・2)だからである。

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