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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年7月8日  年間第14主日 B年 (緑)
わたしは語りかける者に耳を傾けた (エゼキエル2・2より)

神の言葉を聞くエゼキエル  
モザイク ギリシア テッサロニキ 
オシオス・ダヴィッド聖堂 5世紀

ギリシア都市テッサロニキのオシオス・ダヴィッド聖堂の祭壇域は半円蓋で覆われており、その壁を飾るモザイクの一部にこのエゼキエルが描かれている。モザイク芸術の歴史の中ではラヴェンナと並んで初期の作例に属する。このエゼキエルの右上には、全身を大きな円光に包まれて虹の上に座っている荘厳のキリストが描かれているという。キリストを包む円光の四隅には、人、獅子、牛、鷲という四福音記者の象徴が描かれ、それは、エゼキエル書1章で語られる、四つの顔の生き物に囲まれた主の顕現の様子を前提としたもので、その関連で、キリストの左下の位置にエゼキエルが描かれているということである。
 エゼキエルの姿は樹木の繁る岩山で前かがみになって両手を耳もとにおいている形で描かれている。じっと何かを聞こうと身構えている様子が印象的である。「そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた」(エゼキエル1・28)の箇所、またきょうの第1朗読箇所になっている、「霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた」(2・2)がまさに対応する。
 預言者は、神の言葉も「預かる」者、すなわち神の言葉を託されて、それを民に告げる役割として理解される。重要なのは、その始まりにはまず語りかける神がおり、その言葉に耳を傾けて聴き取るというプロセスがあるということである。そうして、預言者は神の言葉の使者となっていく。このモザイクのエゼキエルの身をかがめて耳を傾ける姿は、ユニークながら、預言者のあり方の本質を表現している。
 ところで、きょうの福音朗読箇所(マルコ6・1−6)と第1朗読のエゼキエル書(2章)がともに述べようとしているのは、神の言葉を託された者(預言者、イエス)が直面する民の「反逆」(エゼキエル2・3参照)や「不信仰」(マルコ6・6)である。とくに福音朗読箇所は、先週の箇所(ヤイロの娘の蘇生、出血の女のいやし)との鮮やかな対比が意図されていて「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(マルコ6・5)とあるように、人々の信仰があってこそ奇跡が起こるという核心が端的に述べられている。
 この第1朗読における預言者エゼキエルに対する民の不理解や反逆の予告は、その段階では遠い未来に起こるイエスの受難を前もって暗示させ、またイエスに対する故郷ナザレの人々の不理解・不信仰は受難に向かう伏線の一つとも考えられる。このような叙述によって、神の思いと人間の思いの違いの深さを際立たせていき、終極をなす十字架の出来事に向かっていく。
 そういうつながりで見ると、第2朗読箇所(きょうは二コリント12・7b−10)の文章がとても面白くなってくる。パウロは自分の身に与えられた「一つのとげ」(同12・7b) について言及し、それが「サタンから送られた使い」(12・7)だという認識を表明する。当時、宣教活動の中でさまざまな困難にあっていることが伝わる。「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まり」……それらも「キリストのために」満足していると語る使徒の心情が推察される(12・10参照)。
 こうして、この日の聖書朗読は、キリストの弟子として生きる道に訪れるネガティヴな状況を語ることで、神のことばをよりどころにして生きる人の置かれる状況の深さのようなものを感じさせる。
 そこから解放され、神の思いを背に、現実の世界を生きていくための出発点には、神のことばが語るところに耳を傾けることがあり、答唱詩編(詩編123 ・ 1−2)にある「(神の)あわれみを、わたしたちは待つ」という態度があるべきだという教えも含まれている。
 そのような意味で、表紙のモザイクはエゼキエルの姿を描きつつ、神のことばに耳を澄ませ、神のあわれみの待つ態度を伝えている。それは、今、ミサに参加し、きょう、語りかける神のことばを待ちながら奉仕しているすべての人にとっても、心に強く残っていくだろう。

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