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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年8月5日  年間第18主日 B年 (緑)
永遠の命に至る食べ物のために働きなさい(ヨハネ6・27より)

パンと魚を弟子に与えるキリスト
モザイク 挿絵  
ロッサーノ朗読福音書 6世紀

 紫羊皮紙というものが使われていた6世紀の聖書写本の挿絵。きょうの福音朗読箇所は、ヨハネ6章24−35節で、これは、6章1−14節で述べられていた5つのパンと2匹の魚で5000人の飢えを満たしてなお余りあったというエピソードの翌日の話となっている。挿絵は、おそらく、5つのパンと2匹の魚の話に対応して描かれているものだろう。イエスが右側の弟子には、パンのかご、左側の弟子には魚のかごを渡している。この光景の中に、きょうの福音朗読箇所にある弟子たちへのことば「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6・27)というメッセージを聴くこともできる。「わたしが命のパンである」(ヨハネ6・34)という自己啓示には、弟子たちへの召命も不可分に結びついている。
 年間第17主日の解説でも確かめたが、5000人に食べ物を与える話は、4福音書共通でマタイ14章13−21節、マルコ6章30−44節、ルカ9章10−17節、ヨハネ6章1−14節にある。似た話で、4000人を七つのパンと小さな魚で満たした話がマタイ15章32−39節とマルコ8章1−10節にある。これら合計六つの叙述の中でも、さりげなく弟子たちの働きに触れられている。まず、イエスは弟子たちに群衆を座らせるよう命じている(マタイ15・35−37、マルコ6・39、ルカ9・14−15、ヨハネ6・10)。次にパンを裂いて弟子たちに渡し、そして群衆に配らせ、魚についても同様な記述を含むものがある(マタイ14・19−20、マタイ15・36−37、マルコ6・41、マルコ8・6−7、ルカ9・16、ヨハネ6・10)。
 これらの話では、まず先に、イエスが少ない食べ物からも多くの人を満たしたことに目が行くだろう。しかし、どの福音書においても、パンをイエスが弟子に渡し、弟子たちがそれを配ったことをはっきりと記している。「天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハネ6・51)と後に言われるが、そのパンを弟子たちは託されて人々に配るということは、キリスト者すべて、とくに司祭の役割をも暗示的に告げているように思われる。
 実際、教会では絵画の中で、そのような意味でとらえて、これらの話を描くものが多い。この写本画のように、群衆を描かずに、イエスと弟子たちを描くものである。表紙絵作品は、とくにイエスの姿、その表情の力強さが際立っている。目が何よりもそうだ。そして、弟子たちは両手でしっかりと渡されたかごを抱え、目も、イエスを畏敬の念をも感じさせつつまっすぐに見つめている。与えられた使命の確かな受託の姿であろう。イエスの光輪と衣の金色もまたまばゆい、永遠の命を感じさせる。
 我々が経験しているミサにおいて、司祭には基本的に人々の中にいるキリストの現存を示す役割があるが、同時に、人々にキリストのからだを配る役割がある。そこにも、聖体の中にキリストがいると同時に、司祭たちにその役割をゆだねているキリストの存在を感じるべきだろう。そして、ほんとうは、聖体を受ける信者一人ひとりも、ただ食べ物を与えられて満たされる群衆の一人というだけでなく、さらに、その恵みを人々に分け与えていく使命が託されているのである。
 きょうの福音は、「働きなさい」と呼びかけられた弟子たちが「神の業(わざ)を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(ヨハネ6・28)と問いかけると、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とも教えられる(29節)。この「信じること」には、神が神であることを示す信仰宣言、信仰告知、宣教という意味も含まれる。また「神の業を行うこと」はのちに教会の中で、礼拝・典礼を表現する語となっていくことにも注目したい。キリストのからだを受け、分かち合うミサ(感謝の祭儀)が、まさしく信仰の行為であり、信仰を告げ知らせる行為でもあることが、これらの聖書の叙述からも豊かに伝わってくる。

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