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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年9月23日  年間第25主日 B年 (緑)
彼を不名誉な死に追いやろう  (第一朗読主題句 知恵の書2・20より)

十字架のキリスト 
中世ハンガリーの秘跡書写本 挿絵             ブダペスト シェチェーニー国立図書館 12世紀末

 うっすらとした線描が印象的な絵である。12世紀末、ハンガリーの教会で作られた秘跡書(サクラメンタリウム=司式司祭用式文集)の写本に描かれた挿絵。この秘跡書は、記録されたハンガリー語の文章を収める最古の写本の一つであることから歴史的に重要な文書とされる。長い間この写本は、ブラチスラバ(現在のスロバキアの都市)の司教座聖堂に保管されていたが、1813年にハンガリー、ブダペストのシェチェーニー国立図書館に移された。研究者の間では、この写本の校訂版を初めて出版したゲオルク・プレイ(1732−1801)にちなんで、プレイ写本とも呼ばれている。
 この挿絵は、十字架のキリストを描く線画で、部分的にはかすれてしまっている。それでも光輪が丁寧に描かれている。十字架自体は、明確には見えないが、イエスの背後にあることが感じられる。イエスの身体は、ぐっとお腹が出ており、もはや上半身には力がない様子が窺われる。イエスは死につつある。しかし、その表情は、おぼろげながらも、苦しみではなく、栄光に移り行こうとする平安を感じさせる。右手の先のほうには、うっすらと鳥が見える。また、右手の真下あたりには、左手で杖を抱えた男が描かれている。どうやら、鶏の鳴く前に三度イエスを知らないといったペトロ(マルコ14・66−72および並行箇所参照)を描いているものらしい。弟子たちの頭であるペトロの否認を暗示することによって、十字架の悲劇性が浮かび上がる。しかしそれは、人の思いを超えた、神の計画の実現そのものである。イエスの身体は、すでに栄光に包まれているといってよい。黄金色の空気感がこの絵の主題そのものであろう。十字架の死に関する黙想を呼び起こしてやまない。
 さて、きょうの福音朗読箇所は、マルコ9章30−37節。イエスの受難予告を聞いてもその意味がわからない弟子たちが、だれがいちばん偉いかと議論しているところである。そこに「すべての人に仕える者となりなさい」(9・35)というイエスの教えが響く。このすべての人に仕える者であることを示す究極の姿として、表紙絵として十字架のイエスの姿を掲げた次第である。
 この連想を支えるのは、第1 朗読箇所の知恵の書2章12、17−20節である。そこでは、「本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ」(18節)という、一種の信仰を試すような問いかけがある。この言葉は、詩編22・9 の「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう」と同じ調子である。このような言葉をイエスは荒れ野の誘惑のときに受けている。悪魔によって神殿の屋根の端に立たされて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」とけしかけられるときである(マタイ4・6、ルカ4・9参照)。また、十字架につけられたときに、通りがかった人から、同じような言葉でののしられる「神の子なら、自分を救ってみろ」(マタイ27・40)と(全体としてマタイ27・39−44、マルコ15・29−32、ルカ23・35−39参照)。第1朗読の末尾、知恵の書2章20節「彼を不名誉な死に追いやろう。彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ」も同様である。しかし、とくに十字架のイエスに向けて語られたこれらのそれらすべての罵(ののし)りや嘲(あざけ)りの言葉は、まったく逆説的に、イエスの十字架の意味を告げるものとなる。この不名誉な死を通して、神の助けがあった。復活の栄光という助けである。それはしかもイエスにとって意味をもつだけでなく、人類すべてにとっての救いの実現、すなわち、それらの言葉によって、からかわれていること以上のことの実現となる。
 この逆説を成り立たせたのは、イエスの御父の意志への従順であり、すべての人に仕える生き方であった。そこにユダヤ人の王、万民の光、万物の主としての姿が現れている。
 12世紀という古い写本画が示す、キリストの姿に対する想像力は、近代的なものにも感じられる。日本の水墨画の伝統をも想起させるものがある。

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