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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年10月28日  年間第30主日 B年 (緑)
ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください  (マルコ10・47より)

目の見えない人をいやすイエス  
エグベルト朗読福音書 挿絵
トリール市立図書館 980 年

「わたしを憐れんでください」……道端に座っていたバルティマイがイエスに向けたこの叫びは、きょうの福音朗読箇所(マルコ10章46−52節)の中で、二度繰り返される(47節と48節)。はじめは「ダビデの子イエスよ」、二度目は「ダビデの子よ」と呼びかける。イエスが目の見えない人をいやす場面を描く絵は多々あるが、このエグベルト朗読福音書の挿絵は、ほんとうに「道端に座って」いるところを描く、稀少な例の一つである。
 まず、この箇所で物語られるエピソードに注目しよう。道端に座って物乞いをしているこの男が、イエスが通り掛かったことを聞くと、突然、このように叫び始めたというのが発端。周りの人たちが叱りつけて黙らせようとしても、ますます叫び続けたというところで、イエスとの出会いに至る。イエスがその男の前に自分から来たのではなく、「あの男を呼んで来なさい」と人々に言って、人々が、その男に「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」(49節)と伝えたという流れである。つまりここには、一つの召命の実例が語られているといえる。
 バルティマイの「躍り上がって」来るという反応が面白い。「何をしてほしいのか」(51節)という問いかけにも、「目が見えるようになりたい」(51節)と素直である。ここまでのバルティマイの行動を見て、イエスは言う。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(52節)。そのことばと同時に、バルティマイは「すぐ見えるように」なり、イエスに従っていく(52節)。この流れを見ると、イエスがバルティマイの目をいやすという奇跡は、バルティマイのイエスに対する認識、すなわち、「ダビデの子」、そして「先生」であるイエスへの期待が根底にある。
 「ダビデの子」とは、「救い主」がかつての理想の王の系統から現れるという民の期待が込められている称号であり、「先生」もここでは、「わたしの先生」とか「わたしの主」という強い意味があるようだ。こうした、呼び名、「わたしを憐れんでください」という叫び、これは、すでにイエスを神の子・主として賛美する信仰宣言のようなものである。「目が見えるようになりたいのです」という願いさえ、端的に、イエスに対する主としての信仰宣言であり、賛美の響きを宿している。バルティマイがイエスのことをそう認めたことに対して、バルティマイ自身の信仰が本人を救ったと言うほどに、イエスもその信仰を認めている。この両者の認め合いが根底にあって、イエスによるバルティマイの召命と派遣、そしてバルティマイの「従う」という応答がある。
 表紙絵を見てみよう。このエピソードの各要素が凝縮されて描き込まれていると考えられる。道端に座っていたという発端の姿勢がずっとバルティマイのあり方、状況を象徴するようになっており、そこにイエスが出会ったかたちで描いている。絵画ならではの話のデフォルメである。バルティマイの姿勢と手は、悩みの底から「わたしを憐れんでください」と救いを求めている人の象徴であろう。彼に向かって、体を湾曲させるイエスの姿勢とまなざし、そして手は、バルティマイの求めに全面的に対応する姿である。差し伸ばすその手は、救い主としての力でみなぎっている。バルティマイのイエスに対する認識と期待、イエスの彼の信仰に対する認定と称賛。両者の心が向かい合う様子には寸分ものずれがない。ぴったりと寄り添い呼応し合っている感じが、この絵の中心をなす、バルティマイとイエスの姿勢と目と手の対応関係で表現されている。そこに流れる“心の線”を感じ取りたい。
 繰り返すが、このエピソードは、単に目が不自由な人をイエスが素晴らしい力でいやしたという奇跡談にとどまらず、むしろ、つねに限界や困難を抱えている人間が、神を求め、救いを求めるときには、神は必ず応えてくださるということ、そんな我々人間を神は招き続けており、新たな力をもって遣わしてくださるという召命と派遣、召命に応えての信仰の従順を物語る出来事である。したがってそこには神の国が現れ始める。この絵の背景になす曙光のような色彩のグラデーション、そして生い育つ木が神の国を象徴している。

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