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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2019年4月07日  四旬節第5主日 C年 (紫)
わたしはキリストの死の姿にあやかりながら、キリストのゆえにすべてを失った(第二朗読主題句 フィリピ3・10、8より)

ゲツセマネの祈り  
モザイク  
ヴェネツィア サン・マルコ大聖堂 13世紀

 キリストの死の姿にあやかりたい――使徒パウロの言葉(フィリピ3・10より)にちなむ意味で、ゲツセマネで祈るイエスの姿を、きょうの聖書朗読の内容を黙想するために掲げてみた。ヴェネツィア、サン・マルコ大聖堂のモザイクの部分である。直接には、福音朗読だけでなく、第1朗読、第2朗読の箇所にちなむわけではないので、選択の意図を説明する必要もあるだろう。
 聖書朗読の内容を黙想しようとする意図で編集されている『聖書と典礼』の表紙絵であるが、大きなジレンマを抱えている。イエスの受難に関する福音書の叙述にちなむキリスト教美術はきわめて多いのに、直接紹介できる機会が少ないということである。直接,受難が朗読されるのは、受難の主日か聖金曜日しかない。受難の主日はやはりエルサレム入城の図か十字架磔刑図、聖金曜日は十字架磔刑図が基本となる。それに向かうまでの印象的な場面、とくにゲツセマネの祈りの場面(マタイ26・36-46;マルコ14・32-42;ルカ22・39-46)は、受難の主日の長い朗読にしか出てこない箇所で、紙面都合で短い場合しか掲載できない『聖書と典礼』ではその絵を載せる直接の機会がなくなる。そこで、苦肉の策でもあり、それ以上に、黙想の幅や深さを思い切って広げてくれるものとして、きょうの聖書朗読と間接的な関連の意味で、ゲツセマネの祈りの絵を鑑賞することにしている。
 美術史的な事実として興味深いことが一つある。それは、ゲツセマネの祈りについて、キリスト教古代の美術では、特にイエスが苦しみ悶える様子を描くものがなかったということである。あっても、イエスが眠っている弟子たちの前で訓戒を述べる姿を描くものが主だった。イエス自身の人間としての苦しみを描く感性が示されるのは、中世になってから、特に11世紀頃からである。ここに、イエス・キリストに対する関心の持ち方の変化が感じられる。とはいえ、福音書にはそもそもイエスの主としての権威を示す側面もあれば、人間として苦しみ、悶え、御父に祈る姿も証言されている。イエスの姿のどこに強調点を置き、関心を強く向ける文化が形成されるかは人間の側の事情なのだろう。美術や霊性の歴史とはそういうものである。
 さて、このモザイク作品におけるイエスは、一人の人間として御父を仰いでひざまずき、祈っている。ルカ福音書には、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22・42。並行箇所マタイ26・39; マルコ14・36参照)とある。もちろん、その衣や光輪が主としてのイエスの尊厳を示しているので、ここにはまことの神であり、まことの人であるイエス・キリストの神秘そのものが描き出されていることになる。この姿から、受難の主日の第2朗読フィリピ2章6-11節(ならびに詠唱)が思い起こされる。「キリストは、神の身分でありながら、……自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ 2・6 -8 より)。そこには人間的な悲しみ、苦しみ、悶えを抱きつつも御父への従順を貫き通そうとする必死の姿がある。
 このイエスの姿を知ることが、きょうの福音朗読箇所ヨハネ8・1-11節の意味を考えるヒントになるのではないだろうか。イエスは罪の女に石を投げようとする人々の前で、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者」がいるのかと問いかける(ヨハネ8・7 参照)。この言葉の背後に“神のみ前に立ち、自分の罪を悟り、へりくだるべきである。その向こうに神のゆるしと新しい生き方への旅立ちがある”といった戒めと約束が響く。そして、イエスは自らへりくだり、神のゆるしの力をあかしすることになる。イエス自身が身をもってあかししようとしたことの意味と、それに向かうイエスの意志を学ぶことが大切だろう。きょうの第2朗読では、フィリピ書の3章8-14節が読まれるが、そこでは、キリストのその苦しみ、その死の姿にあやかろうとする使徒パウロの気持ちが吐露されている。それは、キリスト者すべての生き方の根底にあるべきものを告げているにほかならない。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷり味わうという機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ〈112〉(V.E.フランクル「夜と霧」)。
 ここで、人間の苦しみと生きることの意味について考えてみようと思います。
 強制収容所での生のような、仕事において価値を発揮する機会も、また体験に値すべきことを実感する機会が皆無であった生にも意味はあるのです。どんなにその人が苦しみ、自己評価を下げ、後悔にさいなまれていたとしても、その後悔に価値がないとは決して言えません。
星野正道 著『いのちへの答えー傷つきながらも生きる』「Ⅰ 傷つきながら生きる霊性」本文より

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