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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2019年8月25日  年間第21主日 C年 (緑)
そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある  (ルカ13・30より)

最後の審判(部分) 
フレスコ画 フラ・アンジェリコ 作
フィレンツェ サン・マルコ美術館 15世紀前半

 フラ・アンジェリコの最後の審判の図。中央の光背に包まれた主キリストの来臨の光景が、周りを囲む多数の天使たちによって輝きに満ちたものとなっている。両脇にいる二人の人は向かって左がマリア、右は洗礼者ヨハネと思われる。これは東方ではデイシスと呼ばれる画題で、人類の救いを主に向かって願うマリアと洗礼者ヨハネからなる図を意識しているのだろう。その両側には、使徒たちが控えている。下には地上に生きる人々、たいてい善意の人と罪人たちの対比が描かれるところである。
 こうした主の来臨による最後の審判の図は、ロマネスク、ゴシックの大聖堂で門の上に描かれることが多かった。それが、信者たちの人生観、歴史観の土台となっていった。最後の審判において天の国に迎えられることを目指し、それにふさわしい地上の生き方をせよ、という無言のメッセージを告げていたのである。それが、この絵では多彩な彩りによって、栄光に包まれた主の来臨が賛美の歌声の中に示されているようである。下のほうでは二位の天使が地上の人々にラッパを向けている。黙示録(とくに11・15)で天使が鳴らすラッパを連想させる。
 このような絵とともに、黙示録の告げる最後の裁き(20・11-15)を連想することは、きょうの聖書朗読とどういう関係があるだろうか。それは、三つの朗読が将来における救いの完成のイメージを告げているからである。福音朗読箇所は、ルカ13章22-30節。新共同訳は「狭い戸口」という表題を付けているところである。どのような者が救われるのか、という問いかけが全体を貫いている。話に例として出てくる人々はふさわしくない人々のことなので、この話自体は、救われるのが難しいことなのだと、たしなめられているようにも感じられてくる。それで、信者たちにとっても教訓となって伝えられたのではないだろうか。
 だが、「戸口は狭いから入れないのだ」という否定的なメッセージがここの究極のものではないはずである。むしろ「狭い戸口から入るように努めなさい」(ルカ13・24)という積極的な招きと励ましこそがメッセージの本来の内容であろう。そして、救われるときのことは、「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」(13・29)と描かれている。最後の審判は、こうしたキリストの招きと励ましにこたえて生きた信者の人生の総決算となるはずである。いわば、自分の人生全体の徹底的な吟味が、宴会によってイメージされる神の国の共同体の一員となることへの「狭い戸口」(13・24)となる。神の国が宴会のイメージではっきりと約束されている。しかも、それは、東西南北、すなわち世界中の人に開かれている、だれもが招かれているのである。
 そのような味わい方の中心点を照らし出すために、第1朗読でイザヤ書の最終章から66章18-21節が選ばれている。主が「すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る」(18節)と告げるところである。ここに、救いの実現が、すべての国や民族の人々が集められ、唯一の主の栄光を仰ぐところにあることが示される。まさしく、それは、イエスが告げる「神の国」の実現である。イスラエルの民への約束と考えられていた主の到来による救いの完成は、本来、異邦人を含む全人類に向けられているものである。そのような救いの展望の広がりがイザヤ書では力強く語られている。そのようなイザヤ書のメッセージが主の降誕の福音に重ねられ、その理解を深めさせてくれていることは周知だろう。
 「すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む」(イザヤ66・18)主キリストの姿を最後の審判の光景として描く図は、その意味では、すべてのキリスト者の置かれている状況ともつながり、その中で最後まで主に従い、その招きに従おうとする人々にとって、主のいつくしみの充満である。現代の世界でこのメッセージは、きわめて切迫した力をもつ。すでに世界各国に住んでいるキリスト者だけでなく、あらゆる世界観、宗教、価値観に生きている人々にも、そのような神の招きは臨んでいる。ミサを通してその道のための福音と聖体の糧を受けている信者たちの歩みはこれからどのような軌跡を描いていくだろうか。それは絶えざる神による鍛練の道にほかならないことも第2朗読(ヘブライ書12章5-7節、11-13節)が示唆している。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

 コラム「義と正義」
 正義というのは、人が各々自分のものを自分で持つ権利がある状態をいいます。何が自分のものであるかは、時と場合によって違ってきますが、人の住む社会には確かに正義が必要です。でなければ、何でも力ずくの奪い合いが常態化して、殺し合いと泣き寝入りの世になってしまうでしょう。
 しかし、いくら正義があってもそれだけでは足りません。いくら公平に自分のものを確保しても、神の命にあずからなければなんにもなりません。ただ正しいということだけで神の命にあずかるものでもありません。正しいうえに、自分の正しいことを誇らず、神を信じながら人を愛する者が義とされるのです。そしてこのことはすべての神の恵みによって可能となるのです。
オリエンス宗教研究所 編『聖書入門―四福音書を読む』「第10講 祈り」本文より

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