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コラム

コラム一覧へ 「ちりに帰って知ること」

星野正道(東京教区司祭・白百合女子名誉教授)
 きょうは灰の水曜日です。典礼の中で灰の式が行われ、私たちは頭に灰を受けることになっています。この灰はキリストと出会って始められた新たな生き方へと、まごころから立ち帰る回心と、私たち人間はちりのようにはかない存在であることへの自覚を私たちに迫ってきます。
 私のよく知っている方のご主人は、八十代を迎えるとともにそれまでの生活がままならなくなりました。奥様の顔も名前も忘れてしまいました。奥様はそれまでと同じように喜んでこまやかにお世話を続けていらっしゃいました。しかし、ある時からご主人は朝になると鞄をかかえてパジャマのまま靴を履き、とても急いで駅の方へ向かうようになりました。ご主人が現役時代、毎日通勤のため向かった駅への道です。奥様が止めても、どうしてもそうすると言ってきかないのです。奥様はいっしょに駅まで急ぎ足で歩き、駅に着くと家に戻るという日々が一ヶ月くらい続きました。
 ある朝、歩きながらご主人が言ったそうです。「俺が会社に行かないと女房や子どもが困るんだよ、姉さん!」。毎日一緒に歩いてくれている奥様を姉さんだと思い込んでいたのです。奥様はおっしゃいました。「愛してるとか、大切だとか言ってもらったことは一度もありません。でも夫がどんな気持ちで、何を思って毎日毎日、駅に向かっていたか、壊れてしまった夫と同じ道を歩いてわかりました。ちりになって、はじめて知ることってあるんですね」。
 人はよく、人間は歳をとると赤ちゃんに帰っていくと語ります。このご主人は人の目には赤ちゃんや幼児のように映るかも知れません。しかし赤ちゃんには、この方が秘めていらっしゃる、ただひたすら愛する人のために自分自身を献げようとする内面はまだ育っていないのです。人は自分でも気づかないままに一生かかってこの種を育て、その実りをたずさえて高齢へと歳を重ねます。確かに私たちは地のちりから取られ、ちりへと帰っていくのですが、取られる時のちりと地へ帰っていく時のちりは同じではないようです。後者は「土の器」なのです。
 人はみな、ちりとしてのはかなさを身に受けています。でも人の思いをはるかに超えた神は、そのはかない「土の器」の中で思いのままに働いていらっしゃいます。このことを忘れないで心に刻みたいと思います。(『聖書と典礼』灰の水曜日 2019年3月6日より)

【訃報】パウロ星野正道神父(2023年9月20日)

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