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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年6月26日  年間第13主日 C年 (緑)
あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります (ルカ9・57より)


従うことについての教え
  手彩色紙版画
  アルベルト・カルペンティール(ドミニコ会 日本)

   

 先週の福音における受難予告のあと、イエスは、はっきりとエルサレムへと向かう。受難の覚悟をもっての旅の始まりであることをきょうの福音朗読箇所の冒頭が語っている。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9・51)。
 この旅の道すがら、イエスは、彼に従っていくということはどういうことであるかの教育を始めていく。実際にそれは、人々に対する教えの記憶が収録されていったのであろう。「人の子には枕する所もない」(9・58)、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(9・62)などの表現には、実際に語ったであろう教訓の面影がある。カルペンティール師のこの作品は、彼の前にひざまずく人に手をかけながら教えを告げているイエスの姿を描いている。ひざまずいているその人の姿勢には、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(9・58)という言葉の雰囲気がある。一行の中のある人の言葉といわれているが、ヨハネ福音書の中でペトロが言う「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(ヨハネ6・68)にも似ている。我々が聖体拝領前に告げる言葉である。とすれば、ここで青い上衣をまとい、イエスの前にひざまずいている人は、我々自身の反映とも見ることができる。
 イエスは彼(ひいては我々)に対して、いわば“わたしが行くところには、枕する所がないかもしれないぞ、それでも、ほんとうにどこまでも従う決意はあるのか?”と問いかけている。厳しい問いかけであろうか。そうかもしれないが、ここでイエスは、その人を抱き抱えるほどに密着している。人にどこまでも従うことを求めている方は、まさに、一人ひとりに対して共にいる方である。そのことに応えて、各人にも共にいることを求めているのだという意味になるのではないか。この絵のニュアンスの面白いところである。
 さて、きょうの第1朗読に目を向けてみよう。そこは、列王記上19章16b、19−21節となっており、エリヤとエリシャの出会い、エリシャの召命ともいえる場面である。イエスによる最初の弟子たちの召命を思い起こさせるように、牛を飼って農業に使役したいたエリシャは、その生業に別れを告げて「エリヤに従い、彼に仕えた」(列王記上19・21)。イエスに従い、仕える者の姿を示す前表(予型)として朗読されることはすぐに了解できよう。今年は6月第1日曜日の年間第10主日(C年)でも、エリヤのエピソードが第1朗読で読まれていたが、たまたま第4日曜日のきょう年間第13主日(C年)もこうしてエリヤが登場する。第3日曜日の先週年間第12主日(C年)の福音でもエリヤの名が言及されていたことまで含めると、この6月はエリヤ月間であったようである。彼の姿を想起させつつ、イエスの受難への旅が物語られるのである。
 そしてこの間に朗読される使徒書ガラテヤ書では、イエスのみわざがユダヤ人だけでなく、人類すべてに及ぶという救いの普遍性が力説されている。きょうの朗読箇所(ガラテヤ5・1、13−18)で、使徒パウロは、キリスト者の召命について、「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(5・13)と語る。イエスに呼ばれ従うことを自由への召命と表現し、愛によって仕えることと表されている。ここで「自由」や「愛」という概念も高められ、深められているのではないだろうか。これら自体は抽象的だが、その内容は、表紙絵が示しているような、イエスに抱きかかえられるほどにイエスの前にひざまずき、従う姿によってイメージできよう。 その具体的な実行の内容は、今、我々一人ひとりに問われ、かつ委ねられている。

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