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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2016年10月23日  年間第30主日 C年 (緑)
今や、義の栄冠を受けるばかりです (二テモテ4・8より)


最後の審判
  浮彫
  イタリア パルマ大聖堂の洗礼堂 12世紀末
   

 先々週の年間第28主日と、先週の年間第29主日と同様に、きょうの年間第30主日の表紙画像も第2朗読の使徒書にちなんだものにしている。きょうの使徒書の箇所(二テモテ4・6−8、16−18)では、「正しい審判者である主」が、「かの日」つまり終末の来臨に伴う最後の審判の日に「義の栄冠」を授けてくれることを待ち望む使徒の気持ちが吐露されている。それはパウロ個人の心境というだけでなく、キリスト者にとって普遍的な思いでもある。一人ひとりがこの気持ちで信仰と宣教の生涯を生き抜くようにとの励ましと導きの意味をもつ言葉なのである。
 年間の終わりの主日は、「終末主日」と呼ばれ、主の最後の来臨を予告するような福音の教えが読まれ、最後の審判における、神の正しい裁きと救いへの待望がテーマとなってくる。中でも、きょうの第2朗読は、終末主日のテーマを端的に示している。
 中世では、大聖堂の扉によくこのような最後の審判の図が描かれ、人々に終末の裁きに備えた生き方を呼びかける役割を果たしていたというが、表紙に掲げた最後の審判の浮彫は、パルマ大聖堂の洗礼堂の扉を飾っているものであるというところが意味深い。洗礼から始まる信仰の人生のいわばゴールを表現していると考えられるからである。
 玉座にいるキリストは、よく見ると両手を開いて上げている。比較的珍しい動作である。両脇には、天使たちが描かれているので、このキリストを囲む半円弧の部分は、最後の審判のために来られる主の姿、すなわち再臨の図として描かれていると思われる。審判者、裁き主というと、罪ある人を罰する恐るべき方というふうにイメージされるかもしれないが、きょうのテモテ書の内容を見ると、正しい審判者の来臨として、大変積極的なイメージで考えられているのがわかる。主はそばにいて、力づけてくださる方であり、「獅子」にたとえられる、大きな危険や艱難から助け出してくださる方、「天にある御自分の国へ救い入れてくだ」さる方(以上、二テモテ4・17−18参照)として述べられているのである。
 表紙の浮彫も、ここでの教えとよく響き合う。キリストの玉座の(向かって)右側には、十字架が描かれている。キリスト自身が、十字架の苦難を経て、復活させられ、そして、今、神の右の座につき、やがて生者と死者を裁くために来ようとしておられる方である。それは、信仰に生きる人、義の人を呼び集めるためのことで、決して神に従わない人を排除することが第一の目的なのではないと考えられる。
 このような、終末の来臨、最後の審判という救いの歴史の大団円を心に留めて眺めると、福音朗読(ルカ18・9−14)と第1朗読(シラ書35・15b−17、20−22a)の内容もより深く響いてくる。二つの朗読を直接結んでいるのは、「へりくだること」の大切さというテーマだろう。しかし、この「へりくだり」の教えを処世訓的にのみ受け取ると、たんに人間関係における謙遜さ、謙虚さを大切に、ということになりかねない。しかし、ここでは、あくまで、神の前で自分を低くすること、へりくだって神により頼むこと、神に祈ることの呼びかけである。それは、生活のすべてをとおして、すべてをご覧になっている神とキリストを意識する生き方への招きであり、勧めであると考えていかなくてはならない。
 しかも、へりくだりは、決して、神の前に萎縮することではない。すべてを導き、見守り、最後に「義の栄冠」で報いてくださる神を信じて生きていくことという、力強い態度でもある。このキリスト像の両手を上げて、招いてくださるキリストの姿がなんと心強く、頼もしいものであるか。これに応える生き方を、「主が来られるまで」、我々はミサをとおして問いかけられている。

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