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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年1月1日  神の母聖マリア  (白)
マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた(ルカ2・19より)


マエスタ(荘厳の聖母)
  チマブーエ画  パリ ルーヴル美術館
  13世紀
   

 チマブーエという画家について美術史的情報を参照してみる(小学館『世界美術大事典』第3巻より)。生没年は不詳。1272年から1302年の間に彼のついての記録があるのみで、主な作品が残されているのは、アレッツォ、フィレンツェ、アッシジの聖堂の壁画であるという。表紙絵とよく似た構図のマエスタの図がフィレンツェにもある。ビザンティン美術の影響を強く示しているところに特徴があるといわれる。イコンの聖母子の趣に近いものが、たしかに表紙絵のマエスタの図からも感じられる。
 さて、マエスタとは、「玉座の聖母子」の図を指すイタリア語の画題名で、玉座(この玉座も「知恵の座」「上智の座」と呼ばれる)にいる聖母子の周囲を天使たちが取り巻く構図のものである。この表紙絵では6天使が描かれている。もともとは、主の公現に記念される三博士の礼拝の図から、聖母子の部分が独立してゆき、4世紀頃にはすでに玉座の聖母子という形式が生まれている。マリアも幼子イエスも、正面を向いているところに特徴があり、すでにここに救い主の普遍的な現れの力強い宣言がある。神の子の尊厳とともに、その母マリアへの聖なる姿がはっきりと示される図の一つといってもよい。表紙絵の幼子は、すでに支配者のような衣装をまとい、右手は、威厳ある祝福のしぐさをし、左手では巻物を抱えている。これらは、イコンにみられる救い主イエスの属性でもある。
 このような図が示す幼子は、まぎれもなく、主が「苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者と死者を裁くために来られ」(『使徒信条』より)る方、すなわち、今、御父の右の座につき、「世々に生き、支配しておられる」(集会祈願の結びより)方であることを示している。マリアの姿も、この主の母として、すなわち神の母聖マリアと尊敬される姿において描かれている。
 このように、幼子イエスと母マリアを描きつつも、主の現在のありようを投影させて想像し造形するというイメージの構造は、実は、主の降誕をめぐる出来事の祝われ方にも見られる。
 弟子たちは、イエスの十字架と復活を経験して初めてイエスがまさに神の子、つまり神であり主であることがわかった。そのことから出発してイエスの生涯、その宣教、行い、受難の死と復活を思い返すと、それらすべてにおいて主としての姿が示されていたことに気づく。そのような追想は、やがて生涯の始まりにまで及び、人としての誕生の出来事も、やはり、その終極の過越(受難・死・復活・昇天)の観点から想起され、物語られるのである。教会の降誕節を形づくる主の降誕、神の母聖マリア、主の公現なども、実は、主の過越が根底にある。復活節と別なことを祝っているわけではない。ミサ自体、本来そのようなものである。
 堅い話になったが、きょうの福音朗読箇所のしめくくりともいえる「幼子はイエスと名付けられた」(ルカ2・21)の中に深い意味が込められている。「イエス」とは「神は救う」という意味。したがって救い主であることをすでに示している。イエスはまさしく救い主だという宣言がここにある。そこには、すでに生涯全体が含蓄されている。また、きょうの朗読箇所の中で最も味わい深い一文は「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(同2・19)であろう。ここの「思い巡らし」の幅・深さは限りなく、おそらくイエスの生涯のすべてにまで及んでいくものであろう。
 ちなみに、聖母に抱かれるイエスの、少年ながらも威厳ある姿には、ちょうどきょうの第一朗読箇所である民数記6章24−26節の言葉がよく似合う。このイエスにおいて、主である神は、わたしたちを祝福し、御顔を向けてわたしたちを照らし、恵みと平安を与えてくださる。

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