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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年5月21日  復活節第6主日 A年 (白)
わたしを愛する人は、わたしの父に愛される(ヨハネ14・21より)


最後の晩餐
  ベルンヴァルト朗読福音書
  ドイツ ヒルデスハイム司教座聖堂宝物館(1000年頃)



 最後の晩餐を描く絵は、「愛する弟子」(ヨハネ)が親しくイエスの胸によりかかるところ、また一方でユダの裏切りを暗示するものが多い。その限りでは、ヨハネ福音書13章21−30節を踏まえており、表紙絵もその一例である。きょうの福音朗読箇所であるヨハネ14章15−21節は、先週の朗読箇所(14・1−12)とともに、その最後の晩餐の場でのイエスの長い教えからとられるので、いわば話の舞台として、このようなヨハネに基づく最後の晩餐の図を掲げた。
 きょうの朗読箇所での新しいテーマは真理の霊が弁護者として遣わされるとの約束である。先週の箇所で鍵となる教えは「わたし(イエス)が父の内におり、父がわたしの内におられる」(14・ 10)だったのに対して、きょうの箇所では「この霊(真理の霊)があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」(17節)こと、そして、それにより「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」(20節)という関係になることが告げられる。「内にいる」という句の繰り返しが特徴で、それによって、御父とイエスの一体性と同じほどの弟子たちとイエスの一体性が将来に実現すると予告される。イエスはいったん彼らの前を去るが、「あなたがたのところに戻って来る」(18節)。その間、彼らと共にいる方、彼らの内にいる方として真理の霊(聖霊)が遣わされるというのが、ここの話の眼目となっている。このような形で、終末における救いの完成のためにイエスが再び来ることを語り、キリスト者のこの世での生活は、聖霊によって支えられることが告げられるのである。
 さて、その最後の晩餐を描くこの絵。イエスの前にいる「イエスの愛しておられた者」(ヨハネ13・23)−−通常使徒ヨハネと考えられる−−、そして、ユダは、13章のエピソードの造形だが、きょうの朗読箇所の中でたびたび繰り返される「わたし」と「あなたがた」の関係を味わうための図として考えたい。
 イエスは左端に座しているが、すでに高い荘厳な玉座のようである。画面の右側、長い食卓の半分以上を占める弟子たちの姿。頭数を数えると10人。前の二人と合わせると12人となる。中央、つまり10人の弟子団の先頭にいる白髪の弟子はペトロであろう。強い眼差しを発するイエスの目、弟子団の最前列にいる4人の弟子たちの目、描き方は非常に素朴であるが、明るく見開かれている。
 イエスの前での愛弟子と裏切ることになるユダの姿(ひとりだけ衣が暗い色になっている)も、イエスとの関係の深さをそれぞれに示している。そして、ここに、イエスの受難・そして復活から昇天までの歩みも暗示される。ユダの衣の色の暗さを注目すると、逆にイエスと他の弟子たち、そして食卓の布の白さがいっそう映えてくる。「内にいる」という表現で語られる、御父とイエス、イエスと弟子たちとの関係は、一言でいえば「愛」である。あるいは「愛」を、存在的関係として説き明かすキーワードが「内にいる」なのかもしれない。御父、イエス、弟子たちを結ぶ「愛」、弟子たちが「霊」をとおしてイエスと御父に結ばれていく様子、その生き方を支えていく「主の食卓」の意味……それらがこの丹念に彩られた白によって表現されているように思えるのである。それがヨハネ福音書の叙述の響きと重なってくる。
 出来事としては、ユダの裏切りへの予告とそれに対する弟子たちの反応が主題なのかもしれないが、それに続く教えを前提として見ると、弟子たちのさまざまに動いている様子がイエスとの語らいの喜びにも見えてくる。この食卓の光景の中に、現在のミサを中心とする教会生活の景色も浮かんでくる。我々はそれぞれ、どのような心の位置や姿勢をもって、主の食卓に参加しているであろうか……そのような問いかけまでもが響いてくる。

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