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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2017年9月10日  年間第23主日 A年 (緑)
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる(マタイ18・20より)


エマオのキリスト  
レンブラント画 
パリ ルーヴル美術館  1648年


 きょうの福音朗読箇所はマタイ福音書18章15−20節であるが、ルカ福音書24章13−35節のエマオに向かう弟子たちとのエピソードを描くレンブラントの絵を掲げた。それは、マタイ18章20節の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」というイエスのメッセージの形象としてふさわしいものと考えたからである。マタイ福音書は、16章21−28節で最初の受難予告をしてから、しだいに弟子たちの教えの緊迫度を高めていくようである。朗読箇所の中にも、兄弟が罪を犯した場合の忠告の勧告とその方法への教え(18・15−17)、そして、年間第21主日の解説でも触れた「つなぐと解く」の権能についての教え(18節)があった。ここでは、二人が心を一つにして求めるなら、天の父がかなえてくれることを教えた後(19節)、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(20節)ということばが告げられる。これら全体のつながりとなると、やや難解だが、この「わたしもその中にいる」ということばは、マタイ福音書全体を貫く教えであることはしばしば指摘されるとおりである。すなわち、1章23節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」、28章20節の「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と見事に結ばれているのである。こうして、マタイは、「神が我々と共におられる」ことを現されるイエス・キリストが「いつも我々と共におられる」ということを一つの柱にその福音書の叙述全体を築いているとも考えられるのである。
 さて、レンブラント(1606−1669)は有名なので、この油彩画作品に関しても美術史的解説も散見される。一つには、レオナルド・ダ・ビンチの有名な『最後の晩餐』の影響も感じられるという。
 また、背後は、部屋というよりも、大きな建物の内部のように、半円状にくぼんだ部分(ニッシュというらしい)が描かれているが、これは、ティツィアーノらに代表されるヴェネツィア絵画の特徴を汲んだものといわれる。全ヨーロッパ的な背景の上に描かれていることがわかるが、様式的なことは別として、このくぼみの暗さがこの出来事の全体の奥行きの深さを暗示しているように感じられてならない。
 ルカ福音書の叙述では、「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだとわかったが、その姿は見えなくなった」(ルカ24・30−31)とある。この二人の反応を驚きとして強調する表現も可能だが、この絵の場合、むしろ、それらを外面的に表現せず、抑制的な描写になっているという。たしかに、二人の男は、静かにイエスへと視線を送っている。ただ、食卓の上を白く輝かせる光が、ほのかにイエスを照らし、その背後には、伝統的な光輪のようなものがうっすらと見え始めている。闇の中に光を受けて浮かび上がるイエスの姿、これが人々の日常の中で、「共におられるキリスト」に気づく場面なのだろう。このあたりのさりげなさ、ゆっくりとした覚醒のプロセスと時間こそが、この絵のもつ味わいにちがいない。
 きょうの福音朗読の前半は兄弟の罪に対する対応についての教え、これに関連する第1朗読のエゼキエルの預言(エゼキエル33・7−9)も一見厳しい内容であるが、その本質は、我々の中にはいつもキリストが共におられること、このことへの信頼のもとで、隣人愛を行うこと(第2朗読 ローマ13・8−10)に尽きるともいえる。その愛の原動力は神であり、御子キリストであることこそ、我々の意識すべきことなのであろう。このようなメッセージは、ミサにおいてつねに流れている。このキリストとの食卓の光景は、ミサの心象風景といってもよいのである。

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