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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年2月4日  年間第5主日 B年 (緑)
イエスがそばに行き、手を取って起こされると……  (マルコ1・31)

シモンのしゅうとめをいやす
挿絵 エグベルト朗読福音書
ドイツ トリール市立図書館 980年頃

 きょうの年間第5主日はマルコ1章29−39節で、シモンのしゅうとめをはじめいろいろな人をいやすイエスの活動を述べるところ。先週の第4主日はマルコ1章21−28節(汚れた霊にとりつかれた男をいやす)来週の年間第6主日はマルコ1章40−45節、(重い皮膚病の人をいやす)とこのあたりはイエスのいやしの業(わざ)が続く(今年の典礼暦では入らないが、第7主日までいやしの出来事が朗読される)。どのエピソードも、マタイ福音書とルカ福音書に並行箇所があるが、主日にこれらの出来事が読まれるのはB年だけである。
 表紙絵が描くシモンのしゅうとめの話は、朗読本文ではたった2つの節で語られるだけである。場面はシモンとアンデレの兄弟の家。ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも一緒であった。年間第3主日の朗読(マルコ1章14−20節)で読まれた最初の弟子たちがいる光景である。この挿絵は(向かって)左側に4人をきれいに並べて使徒たちと銘記している。すると、右側に横たわっているシモンのしゅうとめの背後の人物は、本文(マルコ1・30)で「人々は早速、彼女のことをイエスに話した」というときの不特定の人を表しているのだろう。しゅうとめをいやすところを描く絵は、イエスが横たわるしゅうとめの手をとるところを描く場合と、表紙絵のように、離れて向かい合っている場合がある。表紙絵は、イエスと相手になる人との対応関係を示す表現において注目すべきものがある。イエスが手を伸ばしている。それに呼応して、イエスの力を受け取ろうとしているかのようにしゅうとめは手を上げている。実際には寝床に横たわっているのだが、見方によっては後ろの人に支えられながらも少し身を起こし始めていくようにも見える。
 「イエスがそばに行き、手を取って起こされると」(マルコ1・31)という描写の中で「手を取って起こされると」の行為は描かれていない。とすると、「そばに行き」と「手を取って」の間にある瞬間をとらえたものといえる。ユニークな着目ではないだろうか。その分、そばに来たイエスにみなぎっている力、ここで手を差し伸ばして、やがてこのあと手を取るに至るであろう動きが凝縮されているといえるのである。イエスが中央に立つ姿の線と、横たわるしゅうとめの姿勢が示す斜めの線の対向関係は、ある種の緊張と深い力の流れを感じさせる。この距離感を通して神の力を体現するイエスの存在と、病によって衰弱している人間との対比が表現されている。
 この絵の味わいを心に置いて、マルコの本文に立ち返ると、さらに味わえてくることがある。それは、「手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」(1・31後半)というところである。「起こされる」は、復活を暗示することばである。イエスによっていやされるとは、ここでは具体的な身体動作としての“再起”になっている。そして、ここで再起した人が今度は一同をもてなす人となっている。よく解説されるようにここの「もてなす」はディアコネインというギリシア語の動詞で「奉仕する・仕える」。そこから、教会でも奉仕者・執事・助祭を表すことばとなっていく。イエスによって人は再起し、他者に積極的に奉仕するようになっていく。イエスによって救われるということの意味合いが鮮やかに示されているのである。
 もう一つ、味わえるのは「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(1・35)。いわば、イエスは隠れてしまっている。弟子たちが後を追い、見つけるまでわからないわけなので隠れている。これほどの人々との絶対的といえるほどの距離感の中に身を置き、そこから人々の前に出てくるというここの叙述も、イエスの死と復活の暗示と感じられてならない。
 イエスは「わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(1・38)と宣言する。ここでの宣教と、悪霊を追い出す、いやしの業(わざ)とは別なものではないことにも注意したい。イエスの行動を通して神の国が現れているのであり、そのことのうちに宣教の根源がある。絵の中のイエスの立ち姿に神の国の到来が力強く示されている。

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