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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年4月8日  復活節第2主日(神のいつくしみの主日) B年 (白)
信じない者ではなく、信じる者になりなさい (ヨハネ20・27より)

イエスとトマス 
挿絵 エグベルト朗読福音書  
ドイツ トリール市立図書館 980 年頃

 復活節第2主日の福音朗読は毎年このヨハネ20章19−31節である。イエスが復活したその日、すなわち週の初めの日の夕方に、復活したイエスが弟子たちの真ん中に来て立ち、平和を与え、聖霊を授ける。弟子たちの中でトマスだけが疑いを示す。その八日の後、つまり次の週の初めの日にまた、イエスが弟子たちの中に現れ、そしてそのトマスと対話する場面が曲折に富んでいて興味深く、美術でも一般に「トマスの疑い」ないし「トマスの不信」という題で好んで描かれる場面の一つとなっている。
 トマスのことばでは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20・25)と、手の釘の跡とわき腹が問題となっているが、絵は、たいてい脇腹の傷跡に焦点を当てる。そこに向かってトマスがただ覗きこむだけのような描き方もあれば、手を伸ばしているだけの描き方もある。エグベルト朗読福音書のこの挿絵では、トマスが右手を伸ばしながら、わき腹を覗こうとしている。これは、イエスのことば「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節)に対応している。ただし本文では、実際にトマスがそうしたかどうかについては言及されていない。トマスの対応の中で言及されているのは、イエスのことばに答えて「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と言ったということだけである。本文を素直に読むと、このトマスの信仰告白がメインになっていることがわかる。このエピソードはトマスの疑いや不信どころか、「トマスの信仰」をテーマにしている。
 ただ、最後のイエスのことばが微妙である。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)とある。トマスは見たから信じた者なのか、見ないで、信仰告白した者なのかがはっきりとは言われていない。流れからすれば、イエスの手を見て、わき腹に手を入れて初めて信仰告白できたのだろうと推測される。とすれば、表紙が、手を伸ばしてイエスの体にある傷を覗こうとしている姿でトマスを描いている中に、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白も響かせていることになる。そう考えると、トマスが左手を広げ、右手でイエスのわき腹を指し、顔を全面的にイエスに向けているこの姿こそ、彼の信仰告白を表現しているものだということになろう。疑う姿がそのまま信じる姿に見えてくるから不思議である。疑いから信仰への劇的な転回を描きとどめているともいえる。
 もう一つ、このエグベルト朗読福音書の挿絵から味わいたいのは、イエスとトマスや弟子たちがいる場の描き方である。弟子たちは家の中にいて、復活したイエスはそこにいつのまにかいて、声をかけるというのが、きょうの箇所の始まりである(ヨハネ20・19−20参照)。
 ところが、絵では、一切家らしき描写はない。それどころか、不思議なことに岩山の上のような設定である。イエスが立っている山の上の右側は崖のようにも見える。弟子たちはイエスに付き従って、この山の上まで来たのだろう。イエスに向かって少しずつ高く上るような足もとの描き方である。この工夫を深く読むなら、弟子たちがともに従い、歩んできたイエスの生涯がいまや頂点に達しようとしている。それが復活した方としての現れである。背景にはいっさい事物は描かれていない。曙(あけぼの)の光のような薄いピンクの空気が満ちている。イエスの衣の色も、この背景色に同化しようとしているかのようである。おそらくこれが新しい永遠のいのちの始まりを意味しているのだろう。イエスのまとう上衣は薄い緑でもある。緑も生命を象徴する色である。背景の曙の色とこの新しい生命の始まりを示すかのような薄緑が、深く響き合い、融合しかけている様子がここに感じられる。聖霊の空間を表現しているといってもよい。復活した主の現れを描く工夫がここに見られるとするなら、味わいは尽きない。その場に交わっていくこと、それが信仰にほかならないのだろう。この絵は、「主は、皆さんとともに」と告げられるミサの内なる景色を表現する一つともいえる。

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