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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年4月15日  復活節第3主日 B年 (白)
あなたがたに平和があるように  (ルカ24・36より)

復活したイエスの現れ  
テンペラ画 
ドゥッチオ作 「マエスタ」(荘厳の聖母)背面の図 
シエナ大聖堂美術館  14世紀

 ドゥッチオの大作「マエスタ」の背面には、イエスの生涯に関するさまざまな場面が描かれており、その一つが、この復活したイエスが弟子たちの真ん中に現れるという場面である。
 きょうの福音朗読箇所は、ルカ24章35-48 節で、その前までの24章13−34節で述べられているエマオへ向かう二人の弟子にイエスが現れた出来事に続く部分である。二人の弟子たちが経験したことを話しているところになり、「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」と記される(ルカ24・36)。これに対して、弟子たちは恐れおののいていたところ、イエスは「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい」と言う(同38−39節)。こういう話の展開は、先週の復活節第2主日の福音朗読箇所であるヨハネ20章19−31節と似ている。そこでも、イエスが真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と告げたことが、2回も出てくる(ヨハネ20・19、26)。どちらにも戸に鍵をかけていた家だったのに、イエスが来て真ん中に立ったということが強調されている。
 ドゥッチオの描写を見ると、この点の描写が逆転しているかのようである。イエスは家の外で、弟子たちの真ん中に立っている。家や戸というものが、ここでは意味を失って、イエスと弟子たちがともにいる空間、イエスが弟子たちの真ん中にいるという位置関係だけが浮き彫りにされ、家の存在はすでに背景と化しているともいえる。
 弟子たちの描写をみると、ルカが語る恐れおののきやうろたえのようなものも確かに感じられる。手を前に出しているところは「どうして?」という率直な驚き、あるいは心に湧く疑念のようなものを表現しているのかもしれない。ルカの叙述の続きを見ると、二つのことが、イエスの復活をあかしするものとなっている。一つは食べること。「焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」(ルカ24・42−43)。そして、もう一つは「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」とイエスが言い(44節)、聖書を悟らせるために弟子たちの心の目を開いたことである。これらはエマオの弟子たちとのエピソードで触れられていることとも対応している。
 このように、ルカでは、イエスが自らの復活を食事の形であかしし、聖書の約束の成就として告げていることになる。ここまで来ると、我々は、ミサを思い起こさざるを得ない。
 復活したイエスが弟子とともに、あるいは弟子たちの前でした食事は、ミサの「感謝の典礼」、聖書を悟らせたことは「ことばの典礼」を思わせる。さらに「あなたがたに平和があるように」と告げたイエスの姿は、「主は皆さんとともに」とたびたび繰り返されるミサでのあいさつ(主の現存の確認)、さらに教会に平和を願う祈りと平和のあいさつの根源を告げるものであろう。このように復活したイエスの現れを示す、福音書の終わりごろのエピソードの数々は、のちにミサ典礼に発展する根源的体験を記すものといわれる。復活節に読まれるこれらの福音書の箇所が、現在の我々にとって、ミサについての最良の教えといわれるゆえんである。
 「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」(ルカ24・44)といわれたことを踏まえて、旧約聖書で約束されたことがイエス・キリストにおいて実現したことを告げ知らせる書として新約聖書が生まれた。そのような約束と成就の対応を絶えず聞き取るために、現在の「ことばの典礼」の形式や聖書朗読配分が構成されていることも、このような新約聖書の中でのイエスの教えそのものに基づく刷新であった。
 イエスが弟子たちの集いの真ん中に立つ姿は、ミサの姿にほかならない。今はイエスの現れに驚き、うろたえる弟子たちは、やがて、聖霊という限りない力を与えられて、福音宣教へ遣わされていくのである(ルカ24・47参照。さらに使徒言行録2・1−13、マタイ28・16−20なども)

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