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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年6月3日  キリストの聖体 B年 (白)
これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である (マルコ14・24より)

最後の晩餐  ステンドグラス   
パリ サント・シャペル教会 
13世紀

 サント・シャペル聖堂は、12世紀半ば、フランス王ルイ9世がパリのシテ島に建てさせた王宮付属礼拝堂である。彼がコンスタンティノポリスでビザンティン皇帝から購入したキリストの「茨の冠」や十字架の断片などを納めるために建設したもので、王宮につながる王族用の上堂と一般用の下堂から成り立っている。上堂には高さ15mに達する窓が15面あり、1,100 余りのキリスト生涯図や旧約物語を描くステンドグラスで飾られている(13世紀半ば制作)。表紙に掲げたのは、イエスの受難にちなむ一連の場面の中の最後の晩餐を描くものである。
 弟子たちの表情が非常に繊細に描かれているのは驚きである。ユダの裏切りに関する告知の場面と思われる。注目したいのは、イエスがもっている杯である。これは、当時から現在までミサで使うカリスの形に近い。食卓に幾つかみえる皿もミサで使う聖体皿と考えることができる。当時のミサの慣習が反映されていると思われる。
 ところで、最後の晩餐というと我々には、きょうの福音朗読箇所であるマルコ14章12−16、22−26節の中の後半22−26節、いわゆる聖体の制定に関する箇所の印象が強い。同様の箇所は、マタイ26章26−30節、ルカ22章15−20節にもある。しかし、意外なことに、中世の写本画やステンドグラス、イコンで描かれるところの最後の晩餐で、このパンとぶどう酒に関する聖体としての制定の場面を主題とするものはきわめて少ない。圧倒的に、最後の晩餐の図では、ヨハネ福音書13章21−30節に基づくユダの裏切りの予告を主題とするものが多いのである。なぜヨハネに基づくかというと、同23節の「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた」とあるのを踏まえて、イエスの近くに「イエスの愛しておられた」弟子(使徒ヨハネといわれる)を描くことが通例となっているからである。この「弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、それはだれのことですか』と言う」(25節)という非常に細かい描写があり劇的感動を誘う。裏切る者の予告に驚く弟子たちと、その中での「イエスの愛しておられた弟子」の役割に焦点が当てられるというのが、頻繁に晩餐図の主題とされているのである。
 このステンドグラスの場面でも中央のイエスの(向かって)すぐ左隣にその弟子が描かれている。左端がユダと思われる。右側にいる二人の弟子たちは、この作品の場合、驚きというよりも、ユダの裏切りを確信して見とがめているようである。
 ユダの裏切りの予告そのものは、マルコ福音書でもきょうの朗読箇所で略されている14章17−21節で語られている。すなわち聖体の制定の箇所の直前である。マタイ福音書(26・21−25)でも同様で、ルカ福音書の場合は制定のあとにユダの裏切りの予告がある(ルカ22・21−23)。ということは、これら共観福音書の場合、聖体の制定とユダの裏切りの予告ということはつねに密接に結びついている。図像の場合、パンとぶどう酒についての言葉は表現しにくいものだといえば、聖体の意味合いは、食卓に置かれたパンやイエスが掲げる杯の中にいつもこめられているといえるだろう。この食卓の場面が、すでにユダ、というよりも、まだわからない弟子たちのうちの一人の裏切りの予告の場となっているということは、ある意味で、受難が始まっているということでもある。パンについて「これはわたしの体である」(マルコ14・22)、ぶどう酒の杯について「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(同24節)という言葉で示される、イエスの受難が現実に始まっていることが、裏切りの予告で示されていることになる。
 きょうの朗読箇所では略されている部分ではあるが、これは、聖体の制定にとっても、大変深い意味があるのではないだろうか。このステンドグラスの画面中、明るい光があたっているのはあくまでもパン皿と杯である。聖体は神の恵みそのものであるが、それはいつも信仰の決断を問うものである。我々の聖体拝領がときに応唱する「アーメン」は、その意味でも限りなく重要である。

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