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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年8月12日  年間第19主日 B年 (緑)
わたしは、天から降って来た生きたパンである(ヨハネ6・51より)

キリスト 聖堂扉の彫刻(部分) 
フランス アミアン大聖堂  
13世紀初め

 「わたしは、天から降って来た生きたパンである」(ヨハネ6・51)という、直接の自己啓示が、ユダヤ人たちのつぶやきを引き起こすというなかで、その意味をさらに語り明かしていくというのが、きょうの福音朗読箇所である。この中に何度「わたしは」という言い方が出てくることか。ヨハネにおいてイエスの告げるこの「わたし」ということばの重みは福音書の中でも抜きん出ている。普通の自己啓示のことばだったものが、ヨハネ福音書の場合は、より深く、その重みを感じとりながら響かせている。
 そのようなことを味わう一つの作品として、ゴシック全盛期のアミアン大聖堂に扉を飾るキリスト像の一部を掲げてみた。これは、キリスト教芸術の歴史の中ではフランス語で「ボー・デュー」(le Beau Dieu=美しい神)と呼ばれるジャンルのキリスト像である。ゴシック式聖堂の正面扉などに描かれる最後の審判の図における裁き主としてのキリスト像の威厳を保ちながらも、もっと優美さを加えた姿が、13世紀の神学においても、神の威厳と慈愛の両面を含んだ御子キリスト、神であるキリストのイメージとして追究されたという。その姿が、聖堂の扉にあることで、人々に神の超越性と同時に、人々を近くに招き寄せるイメージとして重んじられたものと思われる。このような威厳と慈愛のバランスは、イコンのキリスト像にも感じられるものであるが、それはミサを通しても感じられる、御父と御子キリストにも通じる味わいといえるのではないだろうか。
 ヨハネの6章全体をとおして、「わたしは、天から降って来た生きたパンである」(6・51)という自己についての啓示のことばは、つねに招きのことばと結びついている。先週の朗読箇所の終わりに告げられたことば「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(6・35)もそうであった。きょうの箇所の中でも、イエスのもとに来る人、信じる人について「わたしはその人を終わりの日に復活させる」(44節)、「わたしは命のパンである。……これを食べる者は死なない」(48−50節)、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(51節)となり、やがて聖体(「わたしが与えるパン」51節)の意味に展開していく。
 これらのことばには、一人ひとりが心で向かい合うしかないものである。そして、造形芸術におけるキリスト像、とくに聖書が物語る場面描写の中のキリスト像ではなく、単独の姿として描かれるときのキリスト像は、おそらくその時代の人々の心象として共有されていたものであっただろう。 この「ボー・デュー」のキリスト像は、その中でも、きわめて単純でありつつ、上述のように、御父のイメージと御子キリストのイメージを溶け合わせながら伝えてくれる。ヨーロッパ人的とか美しすぎるとかいえるだろうか。そうした要素は多少あるだろう。しかし、ミサでの神の呼称の基本型である「全能永遠の」神と、「いつくしみ深い」神が、これほどバランスよく表現されえた極致を、このゴシック期の西方の彫像が示しているのではないだろうか。東方のイコンにもそれがある。
 きょうの第2朗読、エフェソ書4章32節もこのキリスト像の鑑賞とともに併せて味わっておきたい。
 「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」。

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