2018年8月26日 年間第21主日 B年 (緑) |
主よ、……あなたは永遠の命の言葉を持っておられます (ヨハネ6・68より) 使徒ペトロ イコン(部分) マケドニア オフリド スヴェーティ・クリメンタ教会 15世紀 スヴェーティ・クリメンタ(聖クリメンタ)教会のペトロの肖像イコン。内衣の赤は殉教聖人であることを示しているのだろう。その顔の凛々しさには、彼に寄せる尊敬心が最大限感じられる。白髪はペトロのアトリビュート(属性要素)で、白い巻物は福音を託された使徒としての使命を強く象徴している。この巻物の白と内衣の赤のコントラストが鮮やかである。 ペトロという人物の輪郭や面持ちを深く刻ませてくれる造形を一つの視点としながら、新約聖書の中のペトロ(イエスの弟子の筆頭格として福音書のペトロ、宣教活動を開始した使徒たちのかしらである使徒言行録の中のペトロ、手紙の著者としてのペトロ)の人物像や心理を黙想してみるのは一興だろう。 きょうの福音朗読箇所は年間第17主日からずっと読まれてきたヨハネ6章からの朗読の最後にあたる(ヨハネ6・60−69)。自分のことを天から降ってきた命のパンだとあかしするイエスのことばに対して、なんと弟子たちの多くの者が「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(6・60)とつぶやく。これに対するイエスの言葉は、嘆いているようにも、失望しているようにも、また怒っているようにも、悟っているようにも響く。そして、ある種、突き放したようなことば(65節参照)を放つと、「弟子たちの多くが離れ去り」(66節)という事態になる。この場合にいわれている「弟子たち」とは、イエスが特別に選んで自分の近くに連れていた十二人(十二使徒)とは違い、もっと広い意味でイエスに従いかけていた一群の人々であることがわかる。ヨハネ6章でのイエスのあかしは、これらの人々の態度を分かつものとなった。イエスはその十二人に「あなたがたも離れていきたいか」と問うと(67節)、シモン・ペトロがこの文脈でのクライマックスといえる信仰告白をする。 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(68−69節)。 これは、我々の日本のミサで、聖体拝領前の信仰告白の中に採用されていることばなのでなじみ深い。ただし、前後の文脈からすると、ペトロがいかにも模範回答をもって宣言しているようにも聞こえる。イエスの受難・復活のおりにペトロに訪れた状況と彼の態度、すなわちイエスの受難に際してのペトロの否認(ヨハネ18・15−18、25−27)、復活したイエスの現れ(21・1−14)、それに続くペトロとのやりとりの場面(21・15−23)をも考え合わせると、ここでの信仰告白の意味合いが微妙なものに感じられてくる。 しかし、それらすべてのやりとりを通じても、ペトロは誰よりもイエスの身近にいた十二人の弟子の筆頭格であったことは明らかである。人間としての弱さ、弟子としての思慮の不十分さが赤裸々に語られる彼の人柄であるが、そのように彼を美化しない伝承が重んじられ、福音書に結実したという初代教会の真実のほうが興味深い。実際、ペトロ自身が語り伝えた内容も多いことだろう。 そのペトロが、使徒言行録第2章の聖霊降臨に続く説教の場面では、復活のイエスをあかしする使徒のかしらとしての勇敢な姿をもって現れる。後に宣教方針に関して、パウロとの論争もあったようだが、それでも、ペトロはローマでの殉教に至るまで、使徒のかしら、教会の礎として生涯をささげ、そのことのゆえに全教会から尊敬される存在となっているのである。 ミサの信仰告白を通しても、福音書で指摘される不十分さにおいても、ペトロは案外、我々にとって近い存在ではないだろうか。我々の中にペトロ的なものがずっと生きているともいえる。ペトロと我々という観点で振り返ってみることも黙想の大切なテーマとなるだろう。 |