本文へスキップ
 
WWW を検索 本サイト内 の検索

聖書と典礼

表紙絵解説表紙絵解説一覧へ

『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年11月25日  王であるキリスト B年 (白)
わたしの国は、この世には属していない。(ヨハネ18・36より)

ピラトの尋問を受けるイエス  
ドゥッチオ作 「マエスタ」背面図 
イタリア シエナ大聖堂美術館 14世紀初め

「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」……今日、ミサの信仰宣言で使徒信条を唱えるなかで、ポンティオ・ピラトの名が毎回唱えられることになっている。イエス・キリスト、マリアと並んで登場する固有名詞。もっとも有名な古代人となっているのではないだろうか。ピラト自身、キリスト教の歴史とともに告げられ続ける名前になるとは思っていなかったであろう。
 ドゥッチオの描く「マエスタ」という聖母子を中心とした大絵画の背面には、十字架磔刑を中心にイエスの受難の各場面が描き分けられている。表紙にある2場面のうち上は、大祭司カイアファの尋問が終わり、総督ピラトの官邸に移されたところ、下は、そのピラトの尋問を受けるところが描かれている。
 きょうの福音朗読箇所はヨハネ福音書の受難叙述の中の18章33b−37節。聖金曜日の受難朗読でも読まれる箇所である。そして、その中から、この「王であるキリストの祭日」である主日のために、「わたしの国は、この世には属していない」(36節)、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」(37節)といったイエスの言葉がメッセージの中心をなしている。来臨する「人の子」の統治が永遠のものであると予告する第1朗読のダニエル書7章13−14節と結びついて、全体を通して、キリストが王である国とはどのような次元のものであるかが主題となっている。第2朗読の黙示録も神の永遠の支配をずばり主題としている。
 この機会に、4福音書におけるピラトの登場場面を簡単に比べてみよう。マルコ15章1−5節では、「ピラトがイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは「それは、あなたが言っていることです」と答える。そのあと祭司長たちがピラトにイエスのことを訴えて、再びピラトは、「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに」と尋問するが、イエスはもはや何も答えなくなる。マタイ27章11−14節では、ピラトの尋問とイエスの答えは同じで、そのあと祭司長たちや長老たちが訴えても、それに一切答えなくなる。ルカ23章1−5節では、ピラトの尋問とイエスの答えは同じだが、全会衆がイエスを訴える形になっている。ピラトの尋問をめぐる状況に関して、イエスのことを訴える人々が、これらの福音書ごとで、祭司長たち、長老たち、さらに全会衆までと広がっていくところが興味深い。表紙絵も、こうした多くの人々の存在を密集させ、兵士を含めて描いているところに、福音書の叙述への顧慮と、場面に対する一種の映画的想像力を感じさせる。
 朗読されるヨハネ福音書の箇所はどうか。 18章28−38節までで他の3つの福音書に比べてとても長く、叙述が詳細になっている。まず、大祭司カイアファのところから総督官邸に連行して来た人々が官邸には入らないと記される(18・28)。過越の食事を祝う前に異邦人と接触することで汚れないためである。それゆえに、ピラトが官邸から彼らのところに出てくる。ドゥッチオのこの表紙の2場面の上の図がそれを反映させている。大祭司側の人々との問答がそれから続いたあと、ピラトは官邸に入り直してイエスに尋問する。「お前がユダヤ人の王なのか」(18・33)。これは他の福音書と同じである。ただ、イエスの答えは、他の福音書と異なり、次のように言う。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(34節)。イエスからの逆尋問である。立場が逆転したかのように、それに対して、ピラトが弁明すると、イエスはさらに言葉を重ねて説明し、その中で「わたしの国は、この世には属していない」(36節)と明確に告げる。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」(37節)は、他の福音書と同様な答え方であるが、さらに「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」(同節)という自己証言が続く。ヨハネ福音書独特の展開である。
 これらを見ると、この場面は、ピラトの尋問ではなく、イエスの尋問である。ピラトの前にイエスが呼ばれているのではなく、イエスの前にピラトがいわば異邦人世界の代表者として呼ばれているかのようである。この絵も、そうした関係性の逆転がよく示されている。イエスがピラトを教え諭しているようなのである。ヨハネ福音書のあとの箇所では、ピラトは有名な「エッケ・ホモ」=「見よ、この男だ」(ヨハネ19・5 )や「見よ、あなたたちの王だ」という言葉(19・14)で、イエスのことを逆説的に証言する。ヨハネ福音書において、ポンティオ・ピラトは、本人の思いを超えて神の計画の中でイエスの証人となっているのである。
 ミサの中で、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と宣言するときも、神のみ心に生かされた人物という意味で思い起こすのがふさわしいのだろう。神の計らいの不思議さを思うしかない。

このページを印刷する

バナースペース

オリエンス宗教研究所

〒156-0043
東京都世田谷区松原2-28-5

Tel 03-3322-7601
Fax 03-3325-5322
MAIL