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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2018年12月30日  聖家族 C年 (白)
両親はイエスが学者たちの真ん中におられるのを見つけた (福音主題句 ルカ2・46より)

学者たちの中の少年イエス 
挿絵 『女王メアリの詩編書』
ロンドン 大英博物館 14世紀前半

 「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前」――少年イエスが、両親にこう言い切っている光景が印象的である。この聖家族の主日C年の福音朗読箇所ルカ2章41−52節の場面は、キリストの生涯図の中でも幼少時代の逸話として頻繁に描かれている。14世紀のこの詩編書挿絵は、たぶんに装飾的な図柄をしている。イエスの姿は少年というよりはもっと幼年のようで、しかも柱の前の細い柱の上に座っている。周りの大人と対等に、またその上にいるというような位置づけを表現しているのだろう。
 イエスの(向かって)左側の空間にいるマリア。その後ろにいるのはヨセフのはずである。はずであるというのは、頭を覆い、ひげを生やしたその姿は老人のようだからである。また、マリアに比して、小さいのは、その役割の違いに対する理解が反映したものだろうか。ルカ福音書の叙述では、イエスを見失って捜し回った果てに、ようやく、「イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」(ルカ2・46)とある。この絵でマリアは、イエスのほうではなく、その驚きをヨセフと語り合っているように感じられる。その手の動きは生き生きしている。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」(ルカ2・48)といった言葉と響き合うかもしれない。
 いずれにしても、このエピソードの中心は、イエスが神殿について述べる一句にある。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ2・49)。
 神殿を特別に「自分の父の家」と語る、神をご自分の父と告げる一つの重要な箇所である。ルカ福音書は、両親が律法に従って、産後の清めの献げ物をしにいく場面も描くように、神殿での礼拝の伝統をしっかりと述べながら、その中で、シメオンに幼子イエスが迎えられたときの神賛美(ルカ2・29−32)を通して、イエスが救い主であることを明示していく。イエスに先立つ旧約の礼拝の伝統を十分に述べた上で、旧約の歴史を凌駕する救い主、父である神の子の到来を語るというような形での救済史的展望が強く表れている。
 この絵が構図の枠組みに置いている建物は、エルサレムを表している。人物たちの背景は金色。神の栄光の現れ、すなわちここが御父である神の空間であることの表現ととると、ルカの叙述とも重なり合う。
 神殿に関する後のエピソードも参考にしているだろう。福音書にはイエスが、エルサレムに入城した後、神殿の境内に入り、商売をしていた人々を追い出す場面がある(ルカ19・45−48)。そこで、イエスは、「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない』。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」(イザヤ56・7参照)。そして、イエスが十字架で死を迎えるとき、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂け」、イエスは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫んで息を引き取るのである(ルカ23.45、46参照)。ちなみに、この福音書は、昇天するイエスを伏し拝んだ後、弟子たちが「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(ルカ24・52−53)ところで締めくくられる。使徒言行録も含めて、ルカの「神殿」への言及は、大いに注目して味わう必要がある。
 さて、そのような建物の中で、少年イエスに驚く、ユダヤ教の学者たちは、いぶかしみ、互いに何かを語らっているようである。それをやがてイエスを受難に導く、無理解や反感の表れととることもできる。実際、このイエスを見失い、再会するというエピソードは受難と復活の前触れであるという解釈もしばしば聞くところではある。ただ、絵自体を眺めていると、学者たちのリズミカルな配置が、少年イエスを賛美する人々の群れのようにも見えてくるのである。

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