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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2019年1月1日  神の母聖マリア (白)
マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた(ルカ2・19より)

聖母子  
多彩色木彫  
ローマ パラッツォ・ヴェネツィア国立博物館 1220年頃

 マリアは黙想の母でもある。きょうの福音朗読箇所は、神の母聖マリアの祭日でいつも読まれるルカ福音書2章16−21節。イエスの誕生が天使によって羊飼いに告げられたあとの場面である。この中で、マリアはヨセフ、そして飼い葉桶で寝ている乳飲み子イエスとともにいる。幼子のことを羊飼いたちがさらに人々に伝えていっている最中「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2・19)のである。マリアが主語となっている文はこの一つだけで、しかも何か主体的に動いているわけではない。ただ、すべてを心に納めて思い巡らす方としてここにいる。ここで起こった出来事をどのように思い巡らしていたかは書かれていないが、そのマリアの姿は、我々にも、神のなさることへの黙想への招きとなっている。
 さて、表紙に掲げた木像は、13世紀に造られた多彩色木彫と呼ばれる聖母子像である。民衆文化としての造形芸術の発展の中で、聖母子の姿が想像され、敬われていった経緯に思いを向けさせられる。
 マリアの衣装は、宝石でもわかるとおり、高貴な女王としての姿を示している。幼子は冠をかぶり、衣服も重厚で、すでに王の尊厳を示している。その左手は左膝の上に本を立てるように抱えている。右手は祝福を授けるしぐさである。これはイコンでもよく見るキリスト像、全能の主であるキリストを描く際の二つの要素である。ここでは、イエスの右手は、天に向かっているようにも見えるし、または、人に向かっているようにも見える。父である神と、人間との仲介者であることの意味にもつながるのかもしれない。
 ここのマリアの表情はどうだろう。イエスに顔を向けるのでもなく、やや、視線は下に向かっている。きょうの福音朗読箇所にあるような、確かに何かじっと考えているような表情である。
 さて、1月1日に祝われる神の母聖マリアの祭日は、ローマ教会の最初のマリアの祝祭日といわれる。主の降誕の八日目(それは、ユダヤ人の慣習で男子の割礼をする日であった)に、幼子が天使から示されていたように「イエス」と名付けられたという出来事が重要である。「主は救う」という意味の名どおりの働きはまだ示されないが、その生涯全体を先取りし、救いの完成のために再び来られる時への思いをこめて、ここでは幼子がすでに王の姿をしていると考えてよいだろう。地上の生涯の始まりにあたって、救いの歴史の完成までがここに集約されている。おそらく、そのような今や幼子を通して展開される神の救いのわざを眺め、神のみ旨に思いを巡らしているのであろう。
 「すべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2・19)という短い記述には無限の深さがある。
 それは、第2朗読のパウロのことば「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4・4)。「女から」「しかも律法の下に」という畳みかける表現の中で、神の御子が人類の一員として、そして、イスラエルの民の一員として生まれたということが言われ、マリアからの誕生がイエスの人類性を意味するものであることが確言されている。
 聖母子像は、人類の中に、その一人として確かに神の御子が来られたことを表現し、記念する。この誕生を通して、そして、イエスの生涯を通して、神の祝福、恵み、平和が訪れている(第1朗読 民数記6・22−27参照)。聖母子像を刻んだ人々は、この誕生の出来事の恵みを造形しながら、神への賛美と感謝の思いを新たにしたことだろう。地上にあって、神のはからいに思いを巡らす、1月1日のきょうの典礼は、新年の信仰生活に向けて、救いの始まりの福音を告げ知らせている。
 
 きょうの福音箇所をさらに深めるために

きょうの福音に繰り返される用語のうち特に興味深い言葉は最後に挙げた”レーマ”である。
このギリシャ語は、「語る」を意味する動詞の派生語であり、その根本義は「語られた言葉」あるいは「出来事」である。
 雨宮 慧 著 『主日の福音 C年』「神の母聖マリア」 本文より



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