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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2019年8月18日  年間第20主日 C年 (緑)
イエスは、……恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです  (ヘブライ12・2より)

十字架降下(部分)   
フレスコ画 ピエトロ・ロレンツェッティ 作
アッシジ サン・フランチェスコ聖堂下堂 14世紀

 ピエトロ・ロレンツェッティとは、1280年頃にイタリア、シエナで生まれ、1348年頃、ペストにより同地でなくなった画家。弟のアンブロジオ・ロレンツェッティ(1290頃~1348頃)とともにシエナ派を形成した人物である。ドゥッチオ(1255年頃~1319)に学んだとされるが、ジョヴァンニ・ピサーノ(1245/50~1314以後)やジオット(1266頃~1337)の影響を強く受けているという。宗教画作品はシエナやアレッツォ、そしてアッシジの教会に残る。とくにアッシジのサン・フランチェスコ聖堂下堂にあるフレスコ画連作が傑作とされ、そこには、十字架磔刑、十字架降下(表紙絵)、埋葬の場面が描かれている(各画家の生没年は『新潮 世界美術辞典』新潮社1985年による)。
 イエスの遺体が十字架から降ろされるという出来事は、福音書ではそれぞれ埋葬についての記述とともにごくわずかに記されているだけである。たとえば、ルカ23章52~53節「この人(=アリマタヤのヨセフ)がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた」(ほかマタイ27・58-60;マルコ15・43-46;ヨハネ19・38-42参照)。アリマタヤのヨセフの働きが印象づけられるが、その他の人として、ルカでは「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した」(ルカ23・55-56)と、婦人たちのことが言及される。この婦人たちがマタイでは「マグダラのマリアともう一人のマリア」(マタイ27・61)、マルコでは「マグダラのマリアとヨセの母マリア」(マルコ15・47)となっている。ヨハネでは、「ニコデモ」(ヨハネ19・39)の言及がある。これらと人物への言及がヒントとなり、十字架から遺体を降ろす場面にも多くの人が描かれるようになる。14世紀のこの作品は、人物が光輪をもって描かれるなど中世的な伝統が保たれつつも、イエスの遺体の表情、人々の悲嘆など人間の感情表現が大きなポイントとなる点が近代的でもある。
 十字架降下の場面は、イエスの受難の出来事を克明に描き物語る受難図の中で注目され、イエスの死を立体的に、かつ人間的に実感しようとする想像力の所産として、14世紀以降、ひんぱんに描かれるようになる。この絵に登場している人々のイエスの遺体に対する接吻の表情と気持ちは鑑賞者にひしひしと伝わる。
 さて、このようなイエスの受難の一場面の図を、きょうの聖書朗読に関連して掲げたその根拠は、第2朗読のヘブライ書12章1-4節の中のイエスについての叙述にある。「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りなったのです」(2節後半)。十字架から降ろされるイエスはまぎれもなく人間である。この姿の中に「わたしには受けねばならない洗礼がある」(ルカ12・50)とイエス自らが予告した受難の極致がある。神の子がこれほどに苦しまれているのである。中世の人々は写実的に絵画化されたイエスの身体と傷を見つめることで神秘への思いを深く養っていたのだろう。強者としてではなく弱者として現れる神の子、まさにそこに、すべての人の目指す「信仰の創始者また完成者である」(ヘブライ12・2)イエスの姿がある。それゆえに、地上の制約や困難のもとに懸命に生きている現代の信仰者にとっても、主は限りない忍耐の源である。ヘブライ書は、初代教会の信者たちに、このイエスの姿を思い起こさせながら「忍耐強く走り抜こう」と呼びかけている。この呼びかけは、現代のわれわれにまで響く。
 ちなみに、第1朗読のエレミヤ書38章4-6節、8-10節は、迫害を受けたエレミヤが水溜めへ綱で吊り降ろされて、泥の中に沈んだ出来事が述べられている。福音朗読箇所(ルカ12・49-53)との関連で選ばれている箇所とはいえ、不思議とイエスの十字架降下の出来事をも連想させないだろうか。このような絵を介して、三つの朗読箇所の関連をさらに深く味わってみたい。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

 平和を願う祈りとあいさつ
 私たちはイエス・キリストの十字架の彼方に真の平和の実現の可能性を垣間見た者たちです。私たちの希求する平和の在りかは、イエス・キリストの十字架の彼方にあります。イエスの十字架なしには、私たちは平和を求めつつ、自らそれを混乱に陥れる愚行を繰り返し続けるだけです。一方の人の平和は、他方の人の抑圧と忍苦なしには支えられない。
それが戦争と束の間の平和の、人類の歴史が繰り返してきた無限の悲劇です。
 神のみ子なるお方が、十字架の苦悩をその身に引き受けてくださったことによって、不正としか思えない、不満が募る一方の理不尽な他者からの圧迫がもたらす、意味の見えない苦しみにも、一つの意味を見出す道が開かれたのです。
吉池好高 著『ミサの鑑賞―感謝の祭儀をささげるために』「第二部 ミサ式次第に沿って――感謝の典礼」本文より

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