2019年11月10日 年間第32主日 C年 (緑) |
すべての人は、神によって生きている (ルカ20・38より) 陰府に下るキリスト ビザンティン・イコン マケドニア オフリド 聖クリメント聖堂 14世紀 「すべての人は、神によって生きている」--復活をめぐるサドカイ派の人々との議論で、死んでからのことを詮議する彼らに対して、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言い、そして「すべての人は、神によって生きている」とイエスは力強く告げる。 「神は生きている者の神だ」ということは、死んだ人を問題にしないという意味ではない。すべての人は神によって生きるし、死ぬことは、もっと神によって、神とともに生きることになる……という意味で、復活ということを単に死後の運命のこととしてではなく、まったく新しい意味で復活を語ろうとしている箇所といえる。「すべての人は、神によって生きている」。このことは、死を超えても真実となる。その意味合いを、イエスは単に議論としてではなく、自らの死を通して、そして復活を通して実際に示していくことになる。ここでの議論も広い意味では、イエスの死と復活の神秘への一つのアプローチとなる。 第1朗読箇所二マカバイ記7章1-2、9-14節は、新約聖書の復活信仰の前提を示している。「世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ」(7・9)、「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである」(7・14)。このような、死を超えての命への希望と確信は、全人類にとって真実のものとなったというのが、イエス・キリストの死と復活の神秘にほかならない。 そこで今回の表紙絵では、すべての人は、キリストの死と復活によって、死の支配から解放され、生きる者とされるということを、「キリストの陰府降下」のイコンを掲げて示している。空の墓で天使が女たちに復活を告げる場面の図と並んで、イコンにおいては、主イエス・キリストの復活を表現するものである。 新約聖書がイエスの復活について語る箇所が、その土台となっている。使徒言行録2章24節は「しかし、神は、このイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」と告げ、一コリント書15章20-22節では、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」とパウロは語る。イエスの死の意味について語るヘブライ書2章14-15も重要である。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」。 イエスの死と復活の意味をそれぞれの観点から照らし出す証言である。イコンは、これらをもとに陰府をイメージしつつ、人類、すべての人の象徴としてアダムとエバ、そして、その時代の人々をあわせて、死の支配下にある人類を表現し、イエスがアダムの手を握り引き上げるという光景として映し出す。 このイコンも「陰府降下」の定型に従っている。神の栄光、永遠のいのちの輝きを示すイエスの背後の光輪は、ここでは、岩山の内部または地下をイメージさせる暗い色と重なっているが、それでも、光の放射が細かく描かれていて、イエスがすでに復活者としての輝く方であることの背景模様となっている。イエスの姿は真っ白く、変容の箇所を思い起こさせる。むしろ、変容の場面の白い姿のイエスが、復活者としてのイエスを予示していたといわなくてはならない。その白衣の後ろの部分が上がっているところに、降下中であるというイエスの姿の描写がある。イコンにもこのようなダイナミックな表現法があるというところが興味深い。 イエスの足もとにも注目したい。暗黒の中で、柩の蓋が開けられ、また破壊されている。はっきりとは見えないが鍵のようなものも見える。これらは、死の支配、死の束縛がすべて解かれたことを示している。 |