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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2020年1月12日  主の洗礼 A年 (白)
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3・17より)

イエスの洗礼 
バシレイオス2世の聖者暦集 
バチカン図書館 985年頃

 イエスの洗礼を描く、東方正教会の聖者暦集の挿絵である。「聖者暦」と訳されている語の言語はギリシア語「メノロギオン」で、直訳すると「月録」である。殉教者や聖人の伝記を祝日順にひと月ごとまとめて記載した東方正教会の典礼書である。正教会の典礼暦に従い、9月から順に記載される。これは、ローマ・カトリック教会では「マルティロロギウム」にあたる(これは直訳すると「殉教者録」だが、殉教者や信仰告白者その他さまざまな聖人や福者記念日録)。最初に「メノロギオン」を編纂したのは、ビザンティン帝国に仕えたシメオン・メタフラステス(900頃-984没) という学者で、彼は東方教会の148人の聖人伝を編纂した。表紙絵の出典となった聖者暦は、皇帝バシレイオス2世 (在位976-1025) の時代の版にあたるという。
 イエスの洗礼の図は、ごく初期にはイエスと洗礼者ヨハネを描くだけだったが、5、6世紀以降、新たな要素が加わる。中央のイエスを挟んで洗礼者ヨハネの反対側に天使(数は多様)がイエスに着せる衣を準備している。さらに9-10世紀以降、ビザンティン・イコンでは、イエスの姿は頭以外、つまり肩の高さまで水の中に立っているように描かれるのが特徴となる。この聖者暦集の挿絵もそうである。そして、その上に聖霊が天から降ることを表す鳩、これは福音書の記述、たとえば、きょうの福音朗読箇所マタイ3章13-17節では「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」(16節)と記されていることに基づく。この鳩(聖霊)が父である神からのものであることを表すために円形の弧の一部分が描かれている。その中は紺色から白に至る濃淡による表現である。先週の星の背景の描き方と似ている。これが神の次元の描き方の一つの伝統である。そしてそこから、これも伝統的な神の「右手」が描かれている。神の働きを表す「右手」は、イエスの洗礼の場面で、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声にあたる。
 こうしてイエスは、その全身(人間性全体)が水で浸され、神の霊にも満たされる。この出来事のうちにイエスが神の子であることが現されたので、これが「エピファネイア」とも東方教会では呼ばれ、1月6日のエピファニア(主の公現)で主に記念される出来事となっているのである。
 共観福音書の叙述の流れで見ると(マルコ1・9-11;マタイ3・13-17;ルカ3・21-22)、イエスの洗礼は、いわゆる公生活、福音宣教活動を準備する途中経過の出来事として受けとめられるかもしれない。また、その叙述内容はすでにイエスが神自身によって明らかにされ、それがその後の経過でだんだんと人々に知られていく、その最初の出来事と思われるかもしれない。しかし、これは一人の「人間」の生涯の経過のひとコマというだけでなく、つねに神の子であることの現れの出来事である。
 したがって、主の洗礼を描く図も、すでにそれは、つねにイエスに対する礼拝が真の主題をなす。それは、究極的にはもちろん三位一体の神への礼拝である。中央に水の中に立つイエス・キリスト、その上の鳩の表象の聖霊、その上の「右手」の表象で示される父である神、その三位一体の神に、洗礼者ヨハネも一人の奉仕者として仕え、天使たちも、そして弟子たちも、そこにおける神の子イエスを待っている図である。
 主の洗礼の祝日は、このように、洗礼の出来事を通して、神と人の仲介者イエス・キリストの神秘を記念し、賛美する日である。答唱詩編の「神の名をほめたたえよ。聖なる者が現れるとき、神を拝め」(詩編29・2 典礼訳)の呼びかけを受けながら、「神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました」(第2 朗読箇所 使徒言行録10・38)という出来事、イエスの全生涯の神秘を黙想するのである。
 降誕節の締めくくりにあたる主の洗礼の祝日は、まぎれもなく降誕節が神の子の顕現の祝いであることを見事にまとめ告げ知らせる。こうして、我々は主の福音宣教の歩みを記念する年間の季節へと移り行く。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

主の洗礼
 きょうの福音に先立つ段落(3・1ー12。待降節第二主日15ページ参照)は洗者ヨハネの登場と活動とを述べるが、きょうの福音はそれとひとつに組み合わされている。マルコ福音書と比較すればそれは明らかである。マルコ福音書でも、イエスの洗礼が述べられる直前に洗者ヨハネの登場と活動が報告される。だが、両者の関連はマタイに比べずっと薄。マルコはヨハネの登場とイエスの登場とを別の動詞で表すが、マタイは同じ動詞(パラギノマイ)を使う。また、イエスの登場を述べる書き出しがマルコとマタイでは異なる。
雨宮 慧 著『主日の福音──A年』「主の洗礼」本文より


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