本文へスキップ
 
WWW を検索 本サイト内 の検索

聖書と典礼

表紙絵解説表紙絵解説一覧へ

『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2020年3月29日  四旬節第5主日 A年 (紫)  
わたしを信じる者は、死んでも生きる(ヨハネ11・25より)

ラザロの復活  
木製扉の浮き彫り装飾(部分) 
ドイツ ケルン カピトルの聖マリア教会 一〇六五年頃
 
 きょうの福音朗読箇所も、先週と同様、長い場合は、ヨハネ11章のラザロの復活に関する叙述全部(1-45節)を読むものだが、短い場合はその抜粋になる(3-7節、17節、20-27 節、33節b-45節)。現在のA年の四旬節第3~5主日の福音朗読は、古代教会で入信の秘跡への導きとして用いられていた伝統的な箇所を反映するものである。すべてヨハネ福音書が伝えるサマリアの女との対話(4章)、生まれつき目の見えない人のいやし(9章)、そしてラザロの復活である。入信の秘跡を通して人が招き入れられる新しい永遠のいのちのシンボルとして水、光と語られてきたのが第3主日、第4主日であるのに対して、きょうの第5主日は、文字どおり、ラザロの復活の出来事が、すべての人が招かれており、とくに入信者が完全に導かれていくところの新しい永遠のいのちへの移行のシンボルとなる。神の栄光のより一層の現れであるラザロの復活の出来事は、それゆえ古来、キリスト教美術の大きな主題ともなってきた。マルタ、マリアの姉妹の登場とイエスとの対話も含めて印象深い出来事となっている。
 表紙掲載作品は、この出来事を表現する、ケルンにある「カピトルの聖マリア教会」の南側の扉の木彫である。カピトルとは、古代ローマ市の七つの丘の一つを指す語で、同時にそこにあったユピテル(ジュピター)の神殿をも指す。ケルンが古代ローマ時代の軍事拠点であり、政治と祭祀の中心地であったことを記憶にとどめる語といえる。8世紀には、ここに有力貴族の私有教会を兼ねた女子修道院が建設されたが、9世紀末のノルマン人の侵攻のさなかに焼失。10世紀にケルン大司教により女子修道院が新たに建設され、さらに11世紀の大司教によってロマネスク様式の大聖堂が建てられ、1065年に献堂された。その扉に造られたのが表紙作品を含む木彫である。初期ロマネスク美術の木彫作品を代表するものとなっている。
 そこにはイエスの生涯の22場面が描かれている。左側には降誕をめぐる出来事が11場面、右側にはイエスが行った二つの奇跡(目の見えない人のいやしとラザロの復活)の場面のほか受難にまつわる場面を幾つか、そして復活・昇天・聖霊降臨を含めて同じく11場面が含まれる。奇跡として先週の福音朗読箇所であった目の見えない人のいやしと、きょうのラザロの復活が描かれているところに、この二つの出来事が意味するものの深い象徴性が感じ取られていたことがわかる。
 さて、作品は小さな枠の中に、イエス(向かって左端)と、二人の人の間にいるラザロの4人が並列している。そこに目がいくが、ラザロが起き上がった柩(ひつぎ)のしたにまっすぐ横になってイエスの足元にひれ伏している女がいる。これが、ヨハネ11章32節(短い朗読本文では割愛されている)の「マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った」にあたる。そう言ってマリアが泣いたことが引き金になって、イエスが「心に憤りを覚え」(33節)、ラザロの復活という驚くべき出来事に至る。その意味では、そこまでの経過全体をこの作品は内包していることになる。
 イエスは左手に書物を抱え、右手のしぐさはやはり力を及ぼすしぐさである。先週の目の見えない人をいやすときのイエスの姿とほとんど同じである。救い主としてのキリストの姿を描いている。ラザロの両側の男たちはこの出来事に驚嘆しているようであり、イエスのほうに向かっているわけではない。マリアの姿は、奇跡の発端となった、ひれ伏しであるとともに、その顛末のあとにもう一度見ると、そのイエスを信じた人々の信仰心を体現しているものともいえる。小さな枠内であるがゆえに、棺の下に真横になったマリアのひれ伏しが強調されており、そこにはイエスに対する信仰、信頼、帰依、賛美の気持ちが幾重にも重ねられている。ラザロの復活はあくまで後に起こるイエスの復活の予告であり、イエスの死と復活による、神の栄光の決定的な現れの予兆である。イエスの受難はいよいよ来週記念される。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

聴く場所
 国連の建物には、事務総長であった、ダグ・ハマーショルドの発案によって作られた一つの瞑想室があって、そこには「外界の感覚の静寂さと、内面の感覚の平穏さのためにささげられ、そこでは部屋の扉は思索と祈りの無限の国に開かれ得る」との言葉が記されていると言われます。
国際政治を行おうとした人にとっても、最終的にはそれぞれの人が内なる世界の広がりに開かれていくことの必要を感じたのでしょう。


中川博道 著『存在の根を探して――イエスとともに』「2「聴く」という生き方の意味」本文より

このページを印刷する

バナースペース

オリエンス宗教研究所

〒156-0043
東京都世田谷区松原2-28-5

Tel 03-3322-7601
Fax 03-3325-5322
MAIL