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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2020年8月23日  年間第21主日  A年(緑)  
シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ(マタイ16・17より)

ペトロに天の国の鍵を授けるキリスト  
ケルンで作られた朗読福音書挿絵
ブリュッセル王立図書館 1250年頃

 きょうの福音朗読箇所はマタイ16章13-20章である。新共同訳聖書では「ペトロ、信仰を言い表す」という見出しがついて紹介されていて、マルコ8章27-30節とルカ9・18-21節が並行箇所として示されている。ところがマルコでは、ペトロが「あなたは、メシアです」(マルコ8・29)と宣言したあと、だれにも話すなという注意で終わる。ルカでは、ペトロの「神からのメシアです」(ルカ9・20)という宣言でこの部分は終わる。マタイだけがきょう読まれる後半の部分(16・18以降)で独特な教えを加えている。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。なかなか難しい内容である。
 まず「岩の上に教会を建てる」は、ペトロを土台として「教会」を建てるというイエス自身の意志を告げるものと考えられている。「教会」(ギリシア語「エクレシア」)とは語源的には「呼び集められた者たち」という意味で、この語が福音書に出てくるのはマタイだけ、しかもこの16章18節ともう一つ18章17節の2箇所だけである。使徒の手紙では多く使われ、現在のような「教会」の意味になる。しかし、このマタイの箇所のイエスのことばの中では、今我々が知るような教会という以上の意味合いが含まれているようである。
 それを考えるためには、「わたしの教会」という句が重要になるかもしれない。この「教会」は、「陰府(よみ)の力もこれに対抗できない」(16・18)ものであると語られる。陰府、つまり死者が眠りについている場所、死の支配のもとにある場所さえも対抗できないのがここで言われる「教会」であるとすると、それは、地上の世界における信者の集まりというだけではなくなる。「わたしの」つまり「救い主(メシア)であるイエス・キリストの」教会は、死の支配よりも強いもの、死に打ち勝ついのちの共同体であるということになる。ちょうど、この「ペトロ、信仰を言い表す」の箇所の次に、最初の受難予告、すなわち、受難死と復活の予告が続くこと(マタイ16・21-28)がこの場合では重要になってくる。
 このような文脈を踏まえて、ペトロに天の国(=神の国)の鍵が授けられると言われる場面(16・19)を味わってみよう。鍵の授与は、ここで実際に行為として描写されているわけではない。あくまで、イエス自身の意志・意向の表現である。そのような本文の姿を、表紙絵にした朗読福音書の挿絵も意識しているようである。挿絵ではすでにキリストは天の栄光のうちにある。主のペトロに対する召命を象徴するかのように、鍵がひときわ大きく描かれている。そう考えると、ヨハネ福音書による、復活したイエスとペトロに対する召命の場面(ヨハネ21・15-19)も連想させられる。ただし、この絵の場合、天のイエスから弟子たちを両側から囲むように垂れている帯には、(向かって)右側に、きょうの朗読箇所の冒頭の「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(マタイ16・13)が記され、左側には「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ……」(同16・17)が記されている。
 この鍵については、“つなぐ、解く”の機能で語られている。第1朗読箇所イザヤ書22章19-23節では、「ダビデの家の鍵」が支配権の象徴として語られ、その場合は“閉じる、開ける”という機能で示され、それはわかりやすいが、福音の“つなぐ、解く”はまた独特な意味があるようである。とりわけ、地上での“つなぐ、解く”が、天上においてもその通り行われるというように、この権能における地上と天上の一致が主眼となっていることばである。これは、逆に言うと、神の意志を体現する重要な役割を託されるという意味なのではないだろうか。主の祈りの一節「み心が天に行われるとおり、地にも行われますように」が思い起こされてならない。
 ペトロがイエスに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16・16)と答えたとき、イエスにおいて、ペトロを筆頭とする弟子たちは、神とつながり始めている。それがイエスの死と復活を通して決定的になることはいうまでもない。「わたしの教会」(マタイ16・18)、キリストの「教会」とは、その中で天上と地上とが一致する共同体である。それこそは、ミサの中で我々が経験する教会そのものであろう。感謝の賛歌はまさに天上と地上とが一体となっているキリストへの賛歌である。「ほむべきかな、主の名によりて来たる者」(ミサの「感謝の賛歌」)という賛美は、ペトロの告白につながっている。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

弟子たちは
 「イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」。それは、人々が「メシア」と聞くと政治的な王、経済的な救済者としてしか受け取らないであろうことを、イエスは十分に見とおしていたからでした。


オリエンス宗教研究所 編『聖書入門──四福音書を読む』「第6講 あなたは何者ですか」本文より

 定期刊行物のコラムのご紹介

『聖書と典礼』年間第21主日(2020年08月23日)号コラム「突きつけられる問いかけ」

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