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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年02月14日  年間第6主日  B年(緑)  
よろしい。清くなれ  (マルコ1・41より)

重い皮膚病の人のいやし
エグベルト朗読福音書
ドイツ トリール市立図書館 980年頃

 表紙絵は、きょうの福音朗読箇所マルコ1章40-45節の「重い皮膚病を患っている人をいやす」(新共同訳の見出し)場面を描くものである。新約聖書のギリシア語で「レプラ」と記されているこの病気は、今日でいうハンセン病だけでなく、旧約聖書のレビ記13章2節でいわれる「皮膚に湿疹、斑点、疱疹」ができる病気を広く指すものだったようである(ヘブライ語では「ツァラアト」)。とくに重い皮膚病にかかっている患者は、それらを調べて祭司が「汚れている」と言い渡されると、「衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない」。また、「その人は独り宿営の外に住まねばならない」(レビ13・45)こととされていた。旧約時代のこの場合、祭司が医師の役割も果たしていたようであり、この規定は医療的隔離の意味もあったであろう。その祭司が患者の治癒・回復を確認して「患者は清い」と言い渡すことは、単なる医療発言にとどまらず、共同体への復帰を意味するものであった。そして、この復帰のためには「清めの儀式」を経ることが必要で、レビ記14章には、そのための儀式や献げ物についての詳しい規定が記されている。このような対処法に含まれている、病を「汚れ」とする見方や、共同体からの隔離といった規定には、そもそもは医療的な意味があったのかもしれないが、その患者に対する差別や蔑視観をも生み出していったことは想像に難くない。
 その律法規定やそれから派生していた差別の状況をも背景とした上で、きょうの福音朗読箇所がある。第4主日、第5主日と続けて述べられてきたイエスのいやしの業(わざ)は重い律法規定のもとにあった患者に対しても発揮される。イエス自身のみ心にすがり、清めを求める人を「深く憐れんだ」イエスは、「たちまち」その人を清くする(マルコ1・41-42)。神にしかできないことをイエスは行ったのだが、さしあたりは律法の規定に従うよう患者に言う。イエスの意向においては、自身の有する神的権威はまだ秘されているべきであったのだ。しかし、いやされた人は「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」(45節)のである。この出来事自身のもつインパクトが自ずとこのような「告げ知らせ」を生み出したというべきか。
 エグベルト朗読福音書のこの挿絵ではどのように描かれているだろうか。患者が持っている角笛は彼が「汚れた者」であることを示し、人を避けさせるための道具である。そこにこの患者の置かれた境遇のすべてが表現されている。ただし、マルコ福音書の描写にある、患者がひざまずいてイエスに願ったという姿勢は反映されていない。立ったままである。しかもその姿は、病の苦痛や人々の忌避に対する悲痛な思いのようなものを感じさせない。むしろ、手を広げ、すべてをイエスにゆだね、すがる態度そのものである。おそらく、ここには、「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(40節)という患者の言葉に示される全面的な信頼・委託の気持ちを表現しているのであろう。
 彼と向かい合うイエスは、右手が示すように神的な力を及ぼす姿勢をとっている。その位置を見ると、弟子たちのいるところは少し小高い。イエスはその同じ場所から、患者のところに少し降りて来ている。このさりげない描写の中に「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」(41節)という動きを描いている。絵の中の二人の間、すなわち患者の信頼の気持ちとイエスの行動に含まれる気持ちが、両者の右手が呼応関係の中に集約されているともいえる。心の動きを感じさせる描法である。
 イエスのしぐさの中には、「よろしい、清くなれ」(41節、直訳は「わたしは望む。清くなれ」)という意志表明とその行使の意味合いも込められている。この部分の背景の色は、曙光を思わせる。新しい何かがここに始まっている。患者のいやしによる再起と、イエスにおける神の国の輝きである。
 そして、さらに特徴的なのは、イエスの弟子たちがとても多く描かれている点である。弟子たちの顔は驚きに満ちている。先頭のペトロの両手を広げた姿勢は、驚きだろうか、イエスに関与することを制止している姿勢だろうか。先頭にいるペトロのすぐ後ろの弟子が顔を背けている。これは、この病気が人々に与えた嫌悪感にとらわれている様子だろうか。あるいは神の国の訪れを示す出来事の神秘性におののいているのだろうか。その後ろにいて、出来事を凝視している弟子たちの目の描き方も細かい。じっさい、マルコ福音書が述べるように、このいやしの出来事の告知は、人々の間に大きな驚きをもたらしていくこととなった。神の国の訪れ、あるいはイエスにおける神の力の顕現は、人々の間に衝撃を与え、伝播していく。それがイエスの受難の引き金ともなっていく。イエス自身が苦しむ者となり、それでも御父への従順と信頼のうちに死に向かうことによって、いよいよ決定的に、神の栄光の曙光が射し始めるのである。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

いやしの奇跡の典型
 救いについて語らない宗教はない。語り方はさまざまであろうが、宗教であれば、必ず救いを語る。病気であれ、自然災害であれ、人間関係であれ、苦悩に無縁な人は少ないだろう。宗教の本質は救いにあるが、問題はその語り方であろう。
 聖書も救いを語る。しかし、その語り口には特徴がある。

雨宮慧 著『聖書に聞く』 12 救いの戸口に立ったのに 本文より

 定期刊行物のコラムのご紹介

浜﨑眞実(鹿児島教区司祭) 「ハンセン病」と「ハンセン病問題」『聖書と典礼』2021年2月14日

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