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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年05月02日  復活節第5主日  B年(白)  
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である(ヨハネ15・5より)

神の小羊とぶどうが描かれる象牙彫 
福音書写本外装 
ドイツ ヴュルツブルク大学図書館 9世紀後半

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15・5)……きょうの福音朗読箇所ヨハネ15章1-8節の内容は、「ぶどうの木」のイメージを我々の心に深く刻み込む。そこで表紙には、中世の芸術から、象牙彫の福音書写本外装作品に注目した。ぶどう、鳥、動物といった意匠に、神の小羊キリスト(黙示録5 章参照)が囲まれているものだからである。福音書全体の外装を飾るものとして、ぶどうの木、蔓(つる)、実などがここで選ばれているほどに、そのイメージは重要な意味をもっている。
 そのことを、聖書全体の中で「ぶどう」の持つ意味を調べながら味わってみよう。ヨハネ福音書15章における「ぶどうの木」という譬えには旧約の前提がある。そこでは神の民イスラエルの譬えとして使われている(しばしば「ぶどうの園」という表現でも言及される)。例えば、詩編80・9-15。「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。そのために場所を整え、根付かせ、この木は地に広がりました。……、なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。森の猪がこれを荒らし、野の獣が食い荒らしています。万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください」。エジプトから導き出され、神の民として育つためにカナンの地に招き入れられたが、やがて王たちの背信もあり、存亡の危機に陥った旧約の神の民の歴史が、このようにぶどうの木にたとえられて語られている。
 やがて、荒らされた状態のぶどうの木(神の民)の上に、将来における救いの訪れの預言が告げられる。例えば、ゼカリヤ8章7-8節、12節である。「見よ、日が昇る国からも、日の沈む国からも、わたしはわが民を救い出し、彼らを連れて来て、エルサレムに住まわせる。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義に基づいて、彼らの神となる。……平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。わたしは、この民の残りの者に、これらすべてのものを受け継がせる」。神の民の再建、ひいては新しい神の民の誕生を約束する預言である。
 このように、「ぶどうの木」は神の民を意味する表象であったこと、その不信仰や苦難の歴史の果てに、救いを待ち望んできた民を前提としている表現であったことを見ると、「わたしはぶどうの木」という自己宣言は、旧約的意味を踏まえつつ、さらにそこを超越して、救い主自身を指すと同時に、救い主と一体の民を新たに表現するものとなっている。キリストと一体である真の神の民の誕生が告げられているのである。
 この「ぶどうの木」の表象によって、さらに、そこで約束される「実り」が重要な意味をもってくる。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15・5)。この言い方がヨハネ6章のイエスのことばと響き合うことに注目しなくてはならない。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(同6・51)。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(同6・54)。6章の教えが「パン」という形象に集約させつつ、「わたしの肉と血」すなわち聖体の意味につながる教えであったとすれば、15章の「ぶどうの木」の表象も、キリストとキリストを信じる人との深いつながり(原語では「とどまり」)が、具体的には聖体の秘跡によって養われているということを考えてよい。「ぶどう」だから御血というだけではなく、聖体の秘跡そのもののイメージになっている。
 ちなみに、上に引用したゼカリヤ書8章12節「平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、大地は収穫をもたらし、天は露をくだす」は、現在のミサの第2奉献文についての意味深いヒントになる。日本語版の第2奉献文は、「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ、[いま聖霊によってこの供えものをとうといものとしてください。]わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」だが、[ ]で示した部分は直訳すると「あなたの霊の滴で、この供えものを聖なるものとしてください」となっており、聖霊を露のように滴らせるというイメージが含まれているのである。ゼカリヤ書の表現もイザヤ書の「天よ、露を滴らせよ」(イザヤ45・8)とともに救い主の到来を天の露の滴りで表現する。今、教会では、それがキリストの聖体の聖別を意味するものとなっている。ゼカリヤの預言が言及するように、ここには、ぶどうの木とその実りのイメージが重ねられている。きょうの福音によって、キリストと教会の神秘、そして聖体の秘跡、感謝の祭儀の意味が照らし出されている。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

復活節第五・第六主日
 イエスはぶどうの木であって幹ではない。枝も実も含むぶどうの木である。このことに関連して思い出したいのは、エゼキエル15章である。そこでは第二次捕囚直前のイスラエルがぶどうの木にたとえられる。


雨宮 慧 著『主日の福音――B年』「復活節第五・第六主日」本文より

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