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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年05月16日  主の昇天  B年(白)  
イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた(使徒言行録1・9より)

主の昇天    
二枚折書き板装飾 
アトス ヒランダリ修道院 14世紀

 主の昇天を描く、アトス山のヒランダリ修道院で作られた二枚折書き板装飾のひとコマである。この装飾作品は表紙絵でたびたび紹介しているが、やはりその由来を再び思い起こすことにしよう。
 アトス山とは、ギリシア中央部、エーゲ海に突き出た三並びの半島の最も東側にある、岩山からなる半島で、20の修道院やその他の小施設を含む一大修道院共同体となっている。自治権を持っているため、アトスの修道院共和国とも呼ばれる。14世紀に作られた後期ビザンティン工芸芸術の代表作といわれるのがこの二枚折書き板(ギリシア語で「デュプティコン」)の装飾である。
 デュプティコンとは東方正教会の聖体礼儀(ミサにあたる)で奉献文(アナフォラ)の中の取り次ぎの祈りで記念される、生者・死者を含む共同体のメンバーの名を書き記す板のことである。その表紙がキリスト生涯図の工芸的装飾の場となり、このヒランダリ修道院の作品は、片面に、マリアへのお告げ、イエスの誕生、洗礼、変容、ラザロの復活、エルサレム入城、最後の晩餐、逮捕、裁判までを描く12図、もう片面に、受難、十字架磔刑、埋葬、復活しての顕現、聖霊降臨までを描く12図が組み合わされている。このようにして、福音書から主題をとったキリスト生涯の全24図が、福音朗読が豊かに配分される現代の典礼との関係で、聖書黙想の友と呼べるものとなっている。
 さて、主の昇天の図の典拠となるのは、まずきょうの第1朗読箇所である使徒言行録の1章1-11節である。ここでは、復活したイエスが「40日にわたって彼ら(=使徒たち)の前に現れ、神の国について話された」とあり、食事のときの話のあと、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた……」(使徒言行録1・9)となる。主の昇天の祭日は、このことを根拠として、伝統的に、また現代においても原則的には復活の主日から40日目に祝われる(日本では復活節第7主日にあたる主日に祝われる)。
 ちなみに、昇天のことは、きょうの福音朗読箇所であるマルコ福音書の結び(マルコ福音書にあとから付加された部分といわれるところ)の一部分16章15-20節でも触れられる。特にこの19節「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」というところである。この部分全体でやはり重要なのは、天に上げられる前に、弟子たちに福音宣教を命じるところであろう。主は天に昇るが、弟子たち(使徒たち)は、地上での使命を主から授けられる。その使命に向かって全世界に遣わされていく教会のいわば胎動を写し出しているともいえる。その意味で、マルコ16章15節の「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」というイエスのことばを主の昇天のもつメッセージそのものとして受けとめ、味わうことが大切だろう。
 そのような主の昇天を描く絵にはさまざまなタイプがあるが、この作品の場合、イエスは白い衣をまとい、神の栄光を示すアーモンド型の光背のうちに座しながら、両側の天使によって支えられる形で、天に上げられていくことが表現されている。その下に描かれるべき地上の人々(弟子たち)の真ん中には極めて大きくマリアが描かれ、その両側にさらに主の昇天を告げる天使が描かれている。イエスの昇天を仰ぐ地上の弟子たちの共同体の真ん中にマリアを描くというのも、主の昇天図の伝統の一つの流れである。もちろん、これは、昇天のあとエルサレムに戻ってきた使徒たちの集いの中に、「イエスの母マリア」がいたことを記す使徒言行録1章14節が一つの典拠であるが、それ以上に、マリアが教会の母であり、その典型かつ模範(第2バチカン公会議『教会憲章』53参照)であるという理解と崇敬を反映している。マリアの姿に半身重なるように描かれる天使の姿もかなり強調されている。この天使たちは使徒言行録1章10-11節で言及され、弟子たちを諭すように、「なぜ、天を見上げて立っているのか」と問いかけ、「イエスは……またおいでになる」と、その再臨を確約する。
 その天使たちの外側にようやく天に向かうイエスを仰ぐ弟子たちが描かれるという構図になっている。小さなスペースの中なので、弟子たちの数もこの両脇の二人しか見えないが、推測されるところ、(向かって)左側は白髪と白い髭をたくわえたペトロで、(向かって)右側は、額の広いところからパウロと推測される。新約聖書と教会の伝統から見てのパウロに対する理解と崇敬を示すものだろう。
 したがってこの昇天の図は、単に使徒言行録の1章の叙述内容を再現しようとしているものではなく、新約聖書、そして教会の伝統全体が証言するキリストと教会の全体との関係を写し出している。萌芽的ではあるが、ミサ(感謝の祭儀)の中で常に具現される、天上の教会と地上の教会のキリストによる一致にまで思いを向けさせてくれる。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

素材原理
 では何を捨てるのか。これが「素材」である。すべてを捨てるというが、具体的に何を捨てるのか。修道者が「すべてを捨てて」清貧の誓願を立てるのと、家庭生活を営みながら「すべてを捨てて」というのとでは異なろう。そこには、どんな捨て方があるのか。素材は、例えば山の素材は土や岩石である。土や岩石は不透明なもの、堅いもの、凸凹したもの、富士山のように整ったものばかりではない。つまり、素材というものの対象は「物」である。

奥村一郎 著『奥村一郎選集──第9巻 奉献の道』「第三章 清貧の誓願」

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