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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年06月20日  年間第12主日  B年(緑)  
イエスは起き上がって、風を叱り……(マルコ4・39より)

嵐を静めるイエス(上)
オットー3 世朗読福音書挿絵
ミュンヘン バイエルン国立美術館 10世紀末

 きょうの福音朗読箇所は、マルコ4章35-41節。イエスと弟子たちが舟でガリラヤ湖に漕ぎ出していくと、激しい突風が起こった。その中でも眠っていたイエスが、弟子に起こされて、「風を叱り、湖に、『黙れ、静まれ』と言われた」。すると、風はやみ、すっかり凪になった、というところがエピソードの中心となっている。きわめて印象深い、この場面は、写本画でもよく描かれている。きょうの表紙絵は、上の段にこのエピソードを描き、下の段では、マルコ、マタイ、ルカともに次の箇所で出てくる「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」出来事が描かれている。聖書写本画が本文とどのように対応しているかの例としても、上下ともに掲載している。
 さて、上の段の嵐を静めるエピソード。よく見ると、この舟の中には、イエスが二人描かれている。向かって左側には「艫(とも)の方で枕をして眠っておられた」(マルコ4・38)と述べられるイエス、眠っているイエス、そして、右側には「風を叱り、湖に、『黙れ、静まれ』と言われた」(4・39)イエスである。眠っているイエスのほうに手を伸ばしているのは、聖書本文では「弟子たち」と記されるが、絵では明らかにペトロである。今であれば、アニメーションで作画するような出来事の経過を、同じ場面でイエスを二人描くことで表現しているという感覚は、ある意味、微笑ましい。
 「激しい突風」(4・37)と記されている風は、風の神々のような表象で示され、イエスは舟の中に立って、神の権威を及ぼすしぐさをしている。「黙れ、静まれ」(4・39)の表現である。このエピソードを通して、神がことばを発するとそのとおり実現するという神のことば、命令の力が際立たせられている。それは、最終的には弟子たちに畏怖と「イエスとはだれなのか」という問いを引き起こさせる。「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」(4・41)。
 上の絵で、一つの舟の中に、イエスを二人描くのは、出来事を一つの画面の中で表現する一つの工夫ではないかと述べたが、もっと踏み込んで見ると、激しい風に揺れる舟の中で平然と寝ているイエスも、風に向かって「黙れ、静まれ」と言うイエスも、普通の人間にとっては明らかに別な次元の存在である。このことを示す意味で、イエスを二重に表現することは、イエス自身の超越性とその神的権威を示しているということでもあろう。
 さて、きょうの他の朗読箇所は、第一朗読箇所(ヨブ38・1、8-11)でも「海」( 8節)、「高ぶる波」(11節)が言及され、答唱詩編(詩編 107・23 +24,28a+29+30、31+32) は船出する人、海を渡って商いをする人を描き出し、人が「苦悩の中から神に助けを求めると、あらしは静められ、海はなぎとなった」(詩編107・28)と歌う。究極には創造主である神の力をテーマとし、その神の驚くべきわざ、人間や自然の力さえもはるかに超えた力とわざを目の当たりにし、神への畏れと賛美と信頼の気持ちを醸成するようになっている。また、福音では、イエスがその創造主である神の力を発揮する。「風や湖さえも従わせる」その姿に、弟子たちはさらに驚く。それは、嵐に対する恐怖とは違う「畏怖」である。このような畏怖は、畏敬、帰依、希望、信頼の芽生えを含んでいるものである。
 マルコ福音書では、このようなイエスの人々の前での登場と、そこでイエスが行う奇跡のわざが人々の間に引き起こす、反応のさまざまな形が注目される。弟子たちがだんだんとイエスにおけるその力を知っていくプロセスが描かれるのである。そして、その一つひとつが最後の出来事、イエスの十字架での受難の死と復活への布石となっていく。イエスの神的な力、というよりも、イエスにおいて働く神の力がもっとも完全に明らかにされるのが十字架と復活の出来事だからである。その前哨の一つともいえる嵐を静めるイエスの姿が、二重に描かれていることを、このようなイエスの生涯の予告として見るならば、うがちすぎかもしれないが、眠っているイエスと立っているイエスを通して、その死と復活が暗示されているのかもしれない。
 そのように見ると、眠っているイエスの姿も、単に嵐などものともせずに平然としている英雄の姿のように受けとるべきではないことになる。眠りというものもの持つ意味深さを考えてみてもよいのかもしれない。それは、人間の条件の一つであるからであり、その条件のもとに率先して、何事にも左右されずに、服している姿でもある。嵐も眠りも、人間が服する限界を示すものであるといえるかもしれない。
 そこから「イエスは起き上がって」ことばを発する。この「起き上がり」が用語として、復活の暗示であることを思うとき、「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」(マルコ4・40)という反語の裏側にある、より積極的なメッセージが聞こえてくる。「怖くはない。恐れるな。わたしを信じなさい」……と。



 きょうの福音箇所をさらに深めるために

黙れ。沈まれ
 ここで注目したいのは、「海」という用語。イエスが舟に乗られたのはガリラヤ湖で、これは「海」ではなく、「湖」。しかし、マルコとマタイでは「海」(原文では「タラッサ」、それが日本語では「湖」と訳されている)となっている。ギリシア語世界に敏感なルカでは「湖」(原文では「」リムネー)と書く。マルコにとって湖も海も、すべて「海」とするのは、彼にはセム語族独特の世界観があるからではないか。

和田幹男 著『主日の聖書を読む(B年)――典礼暦に沿って』年間第十二主日

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