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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年06月27日  年間第13主日  B年(緑)  
あなたの信仰があなたを救った(マルコ5・34より)

出血の止まらない女とイエス  
モザイク
ラヴェンナ サンタポリナーレ・ヌオヴォ教会 6世紀

 色彩鮮やかなモザイクの中で、出血の止まらない女のいやしの出来事が描かれている。
 きょうの福音朗読箇所マルコ5・21-43(長い場合)では、二つの出来事が述べられている。ひとつはヤイロの娘のいやし(5・21-24、35b -43)とそこにはさみ込まれるように出血の止まらない女のいやし(5・25-35a)が述べられるのである。表紙絵では、後者に注目して掲載した次第である。
 その女は「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れ」(5・27)た。モザイクは、その直後の場面に焦点が当てられている。女がイエスの服に触れたあと、「自分の内から力が出て行ったことに気づいて」(30節)、イエスは、振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」(同)と聞く。それを恐ろしいと感じたのだろう。「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのままに話した」(33節)となる。
 そんな女の振る舞いを見て、イエスは言う。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」(34節)と。このモザイクの中のイエスは、まさしくこのことばを語りかけているところである。いやしの出来事の一つの典型であり、「救い」というものの具体的な実現でもある。この叙述の中で、女の言動もイエスの対応も、経過が極めて詳しく述べられている。いやしを求めた女性の気持ち、触れるという行為、イエスの気付きと振り返り、女の恐れとありのままを話した態度、信仰をほめ、救いを告げるイエスの言葉……この一つひとつに、神と人との出会いの真実が示されているようである。人は神によって生きる。このことが、イエスに触れるという行為を通して実現する。それほどに、ここで語られる救いはいやしであり、元気になるということである。そこに起こる身体的接触が、結局は神の限りない力を女に及ぼす。神とのつながりをイエス自らがその体を通して示してくれている。
 しかし、イエスは、「わたしがあなたを救った」という言い方はしない。「あなたの信仰があなたを救った」と、この女の思いや行いをすべて受け入れ、認め、称賛している。「あなたの信仰」ということが、女の心の中の思いや希望や願いではなく、神とのかかわり、イエスとの出会い、イエスへの帰依を意味するものであることが感じられる。信仰とは理念とか考えではなく、救い主を求め、願い、従う行動のうちにあることが、この女の態度からよく示される。イエスとの出会いを自ら求め、行動に出るところで、イエス、すなわち、神はその人を受け入れ、そこに神と人との交わり、神への帰依と神の恵みの関係が実現する。
 このモザイクの中のひれ伏す女と、手を差し伸べ、明るい表情で祝福を告げるイエスの間に、神への信頼と救いの恵みが鮮やかに表現されている。金色の背景がここを満たす神の力、その栄光を示していると言ってよいだろう。イエスの衣の青も、女の衣の金色も、すでに永遠の命の息吹と輝きを示しているようである。
 このように、きょうの福音朗読箇所は、ヤイロの娘の話も、この出血の止まらない女の話も、非常に具体的なやりとりにあふれている。その一方で、第1 朗読箇所である知恵の書(1・13-15、2・23-24)では、「神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。生かすためにこそ神は万物をお造りになった」(知恵1・13-14)と告げる。かなり全般的で、抽象的な言い方のように思えるが、それは、神への信頼の祈りの中におのずと含まれているように思われる。答唱詩編で歌われるこの日の詩編のことばも極めて似ており、呼応している。「神よ、あなたはわたしを救い、死の力が勝ち誇るのを許されない」(詩編30・2b 典礼訳)。福音書で述べられているイエスと出会う人々の苦しみの根底に、これほどの命をめぐる苦悩と葛藤があることを知ることは大切であろう。
 「生かすためにこそ神は万物をお造りになった」という信仰告白はパンデミックに襲われている現代の世界に、あらためて重く響くだろう。その神のみ心を御子イエスが救い主として示したのである。きょうの福音朗読箇所のエピソードはその実例にほかならない。そのように見ると、このモザイク作品の中で、イエスの前でひれ伏している女の姿は、人間そのものの象徴であるといえる。この女の姿勢、表情に、救い主への待望、苦しみからの解放の喜びが輝き始めている。ここに交わされているイエスと女のかかわりを、受け継いでいるのが、ミサの集いにあるわたしたちとキリストとの関係であろう。
 「主よ、あわれみたまえ」と叫びながら、我々は主の前に集い、そのことば、福音を聞き、御子の自らをささげる姿と結ばれ、そのからだ(聖体)を受けて、養われる。これらを踏まえて、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。……元気に暮らしなさい」(マルコ4・34)ということばを受けて、我々は生活の中へと遣わされる。それは、単にマイナス状態からゼロに戻ること以上の、限りないプラスの方向付けであるに違いない。



 きょうの福音箇所をさらに深めるために

3 こころ病める方々に対して、宗教者はどのように応接したらよいのか
 受容的な宗教者や共同体に、心病める人の怒りや、憎しみの感情が向かうものだと知っておくことが大切です。こころ病める人に生じる怒りや、憎しみの感情に対しては、何よりもその感情に、ただ単に気づいているだけでも意味があります。
 怒りや憎しみの感情を向けられた宗教者や共同体の側にも、同様の怒りや、憎しみの感情が引き起こされているのが普通です。この現象を逆転移(countertransference)と呼びますが、その感情にただ単に気づいているだけでよいと考えておいてください。
英 隆一朗・井貫正彦 編『こころを病む人と生きる教会』「2 医療における宗教の役割」

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