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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年09月12日  年間第24主日  B年(緑)  
自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい (マルコ8・34より)

イザヤ(左)、エレミヤ(右)の殉教と十字架のイエス
聖書写本挿絵
パリ フランス国立図書館 13紀末

 きょうの福音朗読箇所は、マルコ福音書8章27-35節。この福音書の中で前半後半の転回点にあたる、ペトロの信仰告白とイエスの最初の受難予告、そして弟子たちに対する明確なメッセージ「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8・34)が告げられるところである。イエスの受難予告は、直接のセリフ(つまり「」表記)によってではなく、間接話法的に示される。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」とあるのである。
 この受難予告にちなんで、その終極にあるイエスの十字架上の姿を、表紙には掲げている。大変、ユニークなことに、この十字架のイエスの両脇には、預言者、すなわち、(向かって)左側にイザヤ、右側にエレミヤの殉教の図が織り込まれている。きょうの第1朗読でイザヤの預言(イザヤ50・5-9a)が朗読されることにもちなんでいる。ちなみに、二人の預言者の最後の描き方だが、イザヤについては『イザヤの殉教と昇天』という伝説があり、それによるとイザヤ自身、鋸で体を裂かれて死んだとされている。中世の絵画では、実際、イザヤが大きな鋸で体を二つに裂かれている姿で描くものがある。この絵では、耳が削がれるというやや緩和した描写になっている。預言者エレミヤについても一つの伝承は、彼が石打ちにあって殉教したといわれ、それは忠実に反映されている。預言者イザヤもエレミヤもその生涯の苦難によって、イエスの到来の前表である見方がこのような図に示されているといえるだろう。
 きょうの第1朗読は、受難の主日のミサの第1朗読(イザヤ50・4-7)とも重なる、主の僕(しもべ)の歌(第三の歌)で、この9月の聖書朗読が半年後の朗読とも対角線的に反照し合う位置にあることが興味深い。福音朗読も、受難予告に続く教えの中で、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8・34)という明確な呼びかけが発されるところである。「十字架」を浮き彫りにされる主日であることが印象づけられる(9月14日に十字架称賛の祝日、9月15日に悲しみの聖母の記念日があることも味わい深い)。
 このようにして、きょうの主日は、自らすすんで受難に向かうイエスの弟子として生きるということは、どういうことであるのが、大きな主題となっていく。ちなみに、「自分の十字架を背負って……」ということば含む福音朗読がABC年の各配分でどのように出てくるかを調べてみると、A年は、年間第22主日で、マタイ16章21-27節(きょうのB年 年間第24主日のマルコからの福音朗読と並行する箇所)が読まれる。C年の年間第23主日に読まれるルカ14章25-33節は、上記のマタイ、マルコとの並行箇所ではないが、その中でもやはり「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14・27)と告げられる。自分の十字架を背負っていくことがイエスに従うことである、という明確なメッセージが同じような時期に、どの年も示されるというところを厳粛に受けとめたい。
 イエスは神の国(支配)、神ご自身の力の働くさまを自らの存在と行いをもって示し始めた。救い主(メシア)であることの顕現である。しかし、受難予告は、その使命は、地上的な栄誉で満ちたものにはならず、多くの苦しみを受け、排斥され、殺されてこそ実現するのだという、驚くべき内容となっている。「復活」が現実味をもって告げられるのもここからである。きょうの朗読箇所で、受難予告は、それまでの宣教活動の先にあるものとして語られるが、それに続く「わたしに後に従いたい者は」(8・34)とか「わたしに従いなさい」(8・35)というメッセージは、なにか一瞬唐突に、弟子たちの歩みを一段と高い、より切実なものへと引き上げるかのようで、「わたし(イエス)に従うこと」がいわば至上の使命として示されるのである。その中の「自分を捨て……」とか「自分の十字架を背負って……」ということばの意味は、弟子たちには、この瞬間にはまだわからなかったのではないだろうか。「わたし(=イエス)のため、福音のために命を失う」ということが、究極の使命として弟子たちに示され始めた最初の瞬間がここにある。
 それが、神が、旧約の歴史、その律法、預言を通して、また預言者の生涯と命運を通して準備されてきたものなのだという諭しが、この絵に含まれている。イエスが磔にされた十字架の図は、我々も自ら背負うべき「十字架」の象徴であり、福音のために命をかけていくように招かれ、導かれている我々それぞれの道のしるしでもある。イエスの十字架にまで至った受難、預言者イザヤ、エレミヤの殉教の姿は、今、現在、我々を取り巻く状況がもたらす苦難をも想像させないではいられない。その中で、「わたしに従いなさい」というイエスの声が心に響いてくる。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

受難の予告
 彼はすでにイエスを、神の子キリストであると宣言しました。しかし、そのペトロでさえも、イエスがたどるメシア(救い主)の道が、人間の考えとはどんなに違っているかを、まだ理解できなかったのです。

オリエンス宗教研究所 編『初代教会と使徒たちの宣教 ●使徒言行録、手紙、黙示録を読む』「第7講 イエスに出会った人々」本文より

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